日記
日々の記録
河盛好蔵は「日記について」という文章で、「私たちが日記をつけておいてよかったと思うのは、自分の古い日記を読むとき」であり、そのことによって「自分の人生について多くのことを反省させ」ると述べている。また、ある人の説として日記は三つの会話、つまり「自己自身との会話、友人や肉親との会話、偉大な創造者との会話」から成り立っているとして個々の場合について例を挙げ説明を試みている。 https://gyazo.com/e34fea6b036ccd787543560767e747ab
今書きたいことを書けばいい 書きたくないことは書かなくていい ほんとうのことを書く必要もない
もっと皆日記を書いてほしい。昔のmixi日記のような。Facebookは濁っているので全然だめ。Instagramも写真に対する注釈を出ないのでだめ。その人がどういう日常を過ごして、何を考えたか、何を感じたか、日記を読みたい。 インターネットに公開した文章のすべてを、多くの人に見られたいか? と問われると違う気がしている。仕事で書いた文章(たとえば、サービス告知など)が多くの人に読まれたり、育てようとおもった個人のサイトが育てば嬉しい。個人のブログやSNSは、だれでもみれる環境であっても、無闇に読まれたいわけではない。Webに公開するということは、見ず知らずの多くの人の目に触れる可能性があるわけだけれど、見ず知らずの人のことまで気にして書いているわけではない。いいねがほしいわけでも、ページビューがほしいわけでもない。少し違うな…… そういう承認は嬉しいけれど、それはたまたま得られた結果で、目的ではない。
ではどうしてわざわざ目に触れる場所で、記事を書くのだろう。ローカルのテキストエディタでも、手書きの日記帳でもこと足りる。それでもWebにあげる意味は、ブログを書く意味はなんだろう。ふと、考えている。
ちょっとだけよそ行きになることに答えがあるかもしれない。自分一人の世界を抜けて、知らない誰かに見られる感覚。家からコンビニに行くときに、すこしだけ自分を取り繕うような。部屋着ではない装いになること。会社に行くほどの装いではなく。
わたしは、ひとりでいることで元気を取り戻す、このご時世ではとても便利な性分だ。大勢で話してストレス発散するタイプではない。そんな性格なので、自分と向き合うとき、感情をだしたいとき、だれともわからぬ第三者発露するのが気持ちが良い。そんなときに、なんでも言える場であってほしいよブログは。
でも、つい、大勢に見られる前提で保険をかけてしまう。この文章は個人の見解です。