「言い切る人」が強すぎる。
一言で言えば、「人は、良し悪し(善悪)の判断を述べる人を強く信用し、また強く嫌う」のだ。
だから、コンサルタントや専門家がむずかしい顔で言う
「慎重に判断すべき問題ですね」
「検討すべきですね」
「意見交換が必要だと思います」
「模索していく必要があります」
「あくまで可能性です」
など、煮え切らない「慎重な」意見は、いくら正しかろうが、あまり重視されない。
上の経営者は要するに、
「どっちつかずの意見を言うだけだったら、誰でもできるんだよ。お前は味方か敵か。どちらなんだ?」
と私に迫ったのだ。
影響力を行使するのに必要なのは、「多様性への寛容さ」ではなくむしろ「自説に対する強烈なコミットと不寛容さ」である。
むしろ「なぜ彼らは悪なのか」をくどくど説明するよりも、論理をぶっ飛ばして「アイツらは悪。非人道的。だから許せん。」のほうが、より深く刺さることを、権力者や運動家はよく知っている。
だから、「我々は正しいが、彼らにも一理ある」といった「慎重な発言」は、影響力という点において、「一貫して言い切る人」に、決して勝てない。
一国の指導者が、「敵側にも一理ある」などと言おうものなら、彼は失脚するだろう。
ぼくが「言い切る」について直接的にあれこれと考えたわりと最近の出来事といえば TOKYO 2020 関連の委員会?や政府のふるまい。報道を見ていると「中止の議論は全くない」「延期や中止は一切検討していない」等の言い切りが目に飛び込んでくる。そのたびにぼくはびっくりしてしまう。 議論も検討もせずに、どうしてよい判断ができるのか…?と心配になってしまうのだけれど、こういったメッセージを発信するということは、発信者たちはこうした方がお得だと考えっているってことだよな。ちがうのか?
言い切るプレイスタイルの方が人々を魅了しやすくて、リーダーシップを発揮したい場面では有用なのかねぇ。 極端な物言いの方がお手軽に人々の注目を集められる、ってのはあるんだろうなあ。「〇〇はクソ」「〇〇はゴミ」「〇〇する価値なし」という論調が多くの反応を集めているのは見かける。小規模な炎上商法と言えるのかもしれない。ちょっとずつボヤを起こしているような印象。 元々言い切るのが苦手だったので、比較的ここ数年は「言い切る」ように意識していた気がする。論理的・科学的な説得力を持ちながら、「言い切る」だったら、信頼を得ながら場をリードできるのかな。「〇〇はクソ」「〇〇は価値無し」という表現は、暴力的な表現なので、そういう言い回しを使う人は信頼できない。論理的に「言い切る」と邪悪な暴力的な表現の違いを見極めながら、説得力のある伝え方を身につけていきたい。