エルヴィン・シュトラウス
「空間的なものの諸形態」(1930)におけるダンス論
二つの空間
しかし、リズム概念に関して最 も重要なのは、『神経科医』誌に掲載された「空間的なものの諸形態」(1930年)という論文のダンス論である。この論文は、「色」と「音」の空間的呈示の様態の差異から「光学的空間」と「音響的空間」を区別し、それぞれに固有の身体運動を「目標指向的」と「現在時称的」と特徴づける ものである。そして、これらのうち後者の空間と運動をあらわにし、体現する特権的な営みとして、 ダンスが見いだされることになる。
シュトラウスによる音響的空間の主題化には、当時の心理学への批判がある。それによると、当 時の心理学は、諸感官のうち視覚、触覚、運動感覚にのみ空間性を認め、聴覚を含む他の諸感官は 副次的なものであり、それ自体では空間性を持たないと考える。
これはフッサールの現象学における空間構成の理論にも見られる
シュトラウスは、このように空間性を否認された 聴覚が、それにもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、特異な空間性を持つと考える。それが音響的空間である。
光学的空間
色の空間的呈示は、特定の方向や場所を示す。このことは、色が、おのれがそれの特性であると ころの事物的対象と不可分な仕方で呈示されるということを意味している。また、色は隣接と奥行 との関係において空間を分節するのだから、フッサールの空間構成の理論にしたがって、色の空間 的呈示には、その射映的現出をもたらす身体の実践的可能性が関与していると考えることができる 4)。このような空間性によって特徴づけられるのが、光学的空間である。それは、身体の実践的可 能性によって支えられた、諸々の方向や場所を示し、多様な側面を呈する、三次元的な空間のこと だと言えるだろう。
音響的空間
音それ自体は、ひとつの方向へ伸びていくのではなく、私たちへと到来する。それは、空間を 貫き、満たし、同質化する。音は、それゆえ、空間の単一の場所へと局在化されたままにはな らない。(FS 19)
音響的空間とは、このよう な事物的対象性からの離脱と、方向、場所、側面の宙吊りによって特徴づけられる、そしてそれゆえにそこにおいて方向定位が困難となる、「同質化した」空間である。
事物的対象を示唆しない、空間と同質化した音=音響的空間
空間と身体
光学的 空間における身体運動は「目標指向的」である。光学的空間においては、私たちは色を「あそこに」 見いだすのであった。この「あそこに」は、身体の「可動的なここ」(FS 44)との関係において「あ そこに」であり、パースペクティヴ的に規定される。そして、シュトラウスによれば、目標指向的 運動は必ずや「歴史性」を持つという。
身体の「可動的なここ」は、それとは別の「堅固で転位不 可能な「ここ」」(FS 44)―例えば、勤め人にとっての自宅、遊牧民にとっての日の出―との 関係において存立する。このとき、幾分象徴的な仕方で、「可動的なここ」は「滞在地」と、そして「堅固で転位不可能な「ここ」」は「故郷」と呼ばれる。
私たちが世界のなかでどこにいようと、 それぞれの「滞在地」でどのようなパースペクティヴを持ち、展開しようと、それらはすべて「故郷」との関係において相対的であり、それゆえに歴史的性格を持つのである。
これに対して、音響的空間における身体運動は「現在時称的」である。
シュトラウスによれば、ダンスは、胴体を軸として四肢を動かすような身体運動とは異なり、「胴体の運動性の増大」(FS 33)をもたらし、これによっ て胴体は、それ自体が運動のなかに放り込まれ、脱軸化される。ダンスは「ここ - そこ」からなる 光学的および目標指向的なパースペクティヴを、そして空間における方向、場所、側面を宙吊りにする。身体運動はもはや、空間のなかでの運動ではなく、それ自体が「空間の運動」(FS 42)と等 しくなり、そこで「方向は、いわば私たちと一緒に動き、回転する」(FS 40)。
シュトラウスはこれを「受苦的な立ち合い」(FS 41)、そして「現在時称的な生」(FS 41) と呼ぶ。現在時称的というのは、目標指向性と歴史性のもとにあるような空間的および時間的な継起がなく、つねに現前する=現在であるということである。「それはいかなる変化も引き起こさない。それは歴史的な過程ではない。まさにこれを理由に、私たちはそれを―客観的時間における その持続にもかかわらず、正当にも―現在時称的と呼ぶのである」(FS 41)。
二つの運動
目標指向的運動=歴史的、光学的、空間の中での運動
現在自称的運動=非歴史的、音響的、空間の運動
『感覚の意味について』における空間論
音響的空間との対応
シュトラウスは、ここで示された光学的空間と音響的空間の対比を、5年後の『感覚の意味につ いて』において、よく知られた「地理空間」と「風景空間」の対比として練り上げることになる。 しかし、ここで批判的に問うべきなのは、色/音、視覚/聴覚、光学的/音響的という、既存の諸 感官および感覚的素材の差異に対応づけられた対立が、果たして維持されうるものなのかというこ とである。
マルディネがシュトラウスを継承しつつ、批判的に介入するのはここである。マルディネは『眼差・言葉・空間』(1973年)の第7章「美的=感性的な次元の解明」において、シュトラウスにお ける色/音、視覚/聴覚、等々の区別に疑問を呈し、風景空間(音響的空間)が、音楽やダンスだ けでなく、絵画においても根本的な役割を演じうると主張する(RPE 195-196)。