インド仏教思想史
『インド仏教思想史』三枝 充悳, 講談社学術文庫, 2013
感想:
なんでゴータマ・シッダールタその人は1人なのに大日如来とか弥勒菩薩とか信仰対象がいっぱいいるの? という問が解決した
中国仏教・日本仏教が周辺の信仰を取り入れている流れは、先に『天狗はどこから来たか』杉原たく哉 で読んでいたので知識がつながった ゴータマ・シッダールタの思想自体が一切のマジカルなものを廃した理性的な主張で興味深い
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以下レジュメ
初期仏教
ゴータマ・シッダールタその人が教え伝えた内容
ゴータマ・シッダールタの思想
p.50
苦しみから離れるための、実践的な思想として現れた仏教
基本的立場
ゴータマ・ブッダは前にも記したように、対機説法によって、人々をみちびいた。その人々——多くはなにごとかに苦しみ悩んでいる人々—ーの訴えを聴いて、かれらを安らぎの境地にもたらした。しかしブッダは、人間の力を絶した創造者としての神のごとき、また祈祷・呪術・密法・魔力をもちいる神のごときを廃止し、また不可思議で超自然的なものも斥けた(仏伝にあらわれるこれら神通のようなものは、おそらく後世の粉飾・付加であろう)。
ブッダの教えは、この現実においての苦しみをこの現実において解決しようとするものであった。その意味において、ブッダは、初期仏教は、総じて仏教は、現実を直視し凝視する現実主義であった。
ここでいう現実主義とは、今日いわゆる功利主義とむすびついたそれではない。また現実におぼれて理想を忘れる現実主義ではない。そうではなくて、あくまで地上の人間として、苦しみを内に抱き、欲望に眼のくらむ人間でありながら、その苦の消滅、欲望の超克を、この現実世界において実現し、しかも理想の境地であるニルヴァーナ(涅槃、安らぎ)を、天上のどこかに掲げるのではなくて、現実において獲得しようとするものである。もちろん、祈りもある。しかしその祈りは、誓願という形をとってそれを(不思議な神のごとき万能者・絶対者の力を借りることなしに)必ずやみずから実現しようと努力をつみ重ねて行く。現実における実践、そしてさとりこそが、一切の根本にあり、基本である。一つ一つの実践が現実につねにかかわりあい、現実の多くの問題を解決していく。先に述べたゴータマ・ブッダの最後のことば、
> 怠ることなく精進努力せよ。
に、に、ゴータマ・ブッダの、仏教のすべてがかかっている。
無限に続く形而上の問題(世界がどうなっているか?)にゴータマ・シッダールタは回答しなかった。ニルヴァーナを得るための実践を離れた論争を避けた。
p.53
ブッダはこれに対して、つねに「無記」を通した。すなわち解答をしなかった。
→この哲学が扱う領域を定めた という点で、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を思い出した
ニルヴァーナ
p.70
仏教は(ジャイナ教でもそうであるが)この最高の境地を、上述のようにニルヴァーナと呼ぶ(パーリ語ではニッバーナといい、漢字で涅槃、泥洹(ないおん)と音写する)。これは「動揺をしずめる」「しずかに落ち着かせる」という意味の用例もあるが、ふつうは「(炎が)消えて滅びたこと」あるいは「(炎が)消えてなくなった状態」を意味すると考えられている。(ニルヴァーナは、nir + vā または nir + vṛ の語源が考えられる。前者は風が吹くこと、後者は火の消えることをいう。中部インドは暑熱の国である。そこに火が燃えればますます暑い。そこに一陣の風が吹いて、火がふっと消えると、ひとしきり冷気がただよい、人は一息いれる)。ゴータマ・ブッダの入滅をたたえていう。
>動揺することのない聖者が、
>静けさに達してなくなられたとき、
>心の安住せるこのような人には、
>呼気も吸気もなかった。
>たじろがぬ心をもって、
>苦痛を耐え忍ばれた。
>その心の解脱は、
>あたかも燈火の消滅するがごとくであった。
「寂静」「やすらぎ」がサンスクリットはシャーンティ、パーリ語はサンティであることは、前に記した。このシャーンティは、シャム sam という動詞からつくられ、その動詞の意味は「完了する」(finish)というほかに、「破壊する」(destroy,distingish)をあらわすこともある。後者は明らかに否定的のことばであり、またニルヴァーナに限りない否定の要素があることも、先の説明からみちびかれよう。
してみれば、最高の境地、理想の境地は、まさしく此岸に対する彼岸のように、現実―此岸に立っているもののの否定である。宗教的なことばでおきかえるならば、俗に対する聖であって、ここには必ず否定が介在しなければならぬ。
しかし注意すべきことは、仏教では、否定が唯一回の否定でおわるものではないということである。否定が一時的の否定だけではない。否定がまた否定を生む。そうして聖は俗に、彼岸は此岸に、理想は現実に、いわばいったん生まれ変わって、むしろ積極的にはたらきかける。この意味からするならば、ニルヴァーナは、またシャーンティは、「絶対の平和」ということができるであろう。
慈
p.86
『スッタニパータ』の「慈経」
→この世の苦しみ(から離れること)を説きながらも、いま生きているものやこれから生まれてくるものは幸福であれ と願っているのが面白い
145
他の餓教の非難を受けるような下劣なおこないを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものすべては幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。
146
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、ことごとく、長いものでも、大なるものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細または租大なものでも、
147
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くにあるいは近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。
大乗仏教
仏の拡大
部派仏教=上座部仏教(小乗仏教)の教理や修行は複雑になり、一般大衆には実践しがたくなる
日常生活でも実践できるような仏教革命運動が起こる
一般大衆の救済を目指す大乗仏教となる
慈悲の精神にもとづいて、彼岸(理想)への境地の到達を、自分よりも他人に優先させるひとを「ボサツ(菩薩)」と称する
菩薩とは本来、覚者(ブッダ)になる前の状態を指した。
→ゴータマ・シッダールタが修行をはじめてから悟りを得るまでの期間
大乗仏教以降、菩薩はもう実質ブッダ確定なので、菩薩=ブッダの扱いとなる
過去仏
インド思想は「輪廻」。「歴史は繰り返す」という発想
だからゴータマ・ブッダ以前にも覚者はいたにちがいない→過去七仏がいたとする。二十四仏、四十五仏、五十三仏という説もある。
未来仏
過去仏がいるなら未来にも覚者は現れるはずである。
だが、過去七仏の最後の仏であるゴータマ・ブッダは悟りを得たのでもう再生することはない。
ゴータマ・ブッダが「遠い未来に、メッテーヤ(マイトレーヤ、弥勒)というブッダが現れるだろう」と予言する経典がある。
その由来は、『スッタニパータ』に登場するティッサ・メッテーヤと推定される。
サンスクリット語のマイトレーヤの由来は、イランやインドの古い神「ミトラ」に由来する(ギリシャ・エジプトまで流行したことがある)。名詞としては、親友や友愛などの意味に派生する。
諸仏
過去仏・未来仏による時間的なブッダの拡大だけでなく、別の場所に現れたブッダという空間的な拡大も行われた。
東方に阿閦(あしゅく)仏・西方に阿弥陀(あみだ)仏・南方に宝相仏・北方に微妙音仏がいるとする。(南方・北方は文献により異なることも)
諸仏の数(八、十、...)や名前は経典ごとにいろいろ
阿弥陀仏
西方浄土信仰とともに信仰される
サンスクリットでは「無限の寿命をもつもの」「無限の光明をもつもの」の2つの名称があり、中国語で阿弥陀と音訳される(別々の仏を指していたわけではなく、異名らしい)
衆生済度の願い(本願)をおこして、いまより十劫以前に覚者(ブッダ)阿弥陀仏となった。
「劫」
循環宇宙論の中で、1つの宇宙が誕生し消滅するまでの期間と言われる。
かつて阿弥陀仏の本願は達せられているので、衆生は阿弥陀仏を深く心に念じ(念仏)ていれば、臨終のときには阿弥陀仏が迎えに来てくれるはずだ(来迎)
阿弥陀仏への帰依(ナーム)を口にする→南無阿弥陀仏
「法華経」「華厳経」で言及される。
薬師如来
インドでは信仰がない。衆生の救済の一面が強い。
毘盧遮那仏
ビルシャナ仏
あまねく照らすという意味から、大日如来の訳がつく。
菩薩
菩薩はもう実質ブッダ確定なので、菩薩=ブッダの扱い
1 観音菩薩、観世音菩薩、観自在菩薩
衆生救済のために相手に応じて姿を変える
十一面観音、千手観音、馬頭観音 etc...
2 文殊菩薩
ブッダの知恵を代弁する
3 普賢菩薩
願いを立てて実行する
白い象に乗っている
4 勢至菩薩
5 虚空蔵菩薩
6 地蔵菩薩
ゴータマ・ブッダ入滅〜弥勒仏出現までのあいだの、現世および来世の救済者
他の菩薩とことなり、剃髪したビク(男性修行者)の姿をとっている
六道に対応して6体並んで信仰される例がある
7 その他いろいろ。後世の著名な高僧を指して菩薩と呼ぶ例も多々ある。
般若経:空の思想
p.136
すべての『般若経』の説く思想・内容は、大別して、つぎの二つがあげられる。第一は「空」(sunya,sunyata)の思想である。それは、存在論的・認識論的にいえば、「実体がないこと」であり、実践的にいえば「とらわれないこと」「執著を捨てること」をいい、いずれにしても、厳しい否定で貫かれている。
部派仏教が説いた自性(西洋哲学でいうSubstanz=実体)の否定としての述語の「空」
最初は直感的なものだったが、のちにナーガールジュナ(龍樹)によって理論的に説明される
そこで説かれる自性の否定すなわち無自性(nihsvabhāva)、そして無自性の論拠である緑起(pratītyasamutpāda)は、少しずつ準備されつつあった。すなわち、すべてのものがたがいに相依・相待・相関という関係存在であって、そこには自立存在は認められないというのである。
→ 『あいだ』木村敏を思い出した
実践的思考としての「空」は「すべてのものにとらわれない」こと
→「すべてのものにとらわれない」という思想にもとらわれない
般若心経「色即是空、空即是色」の指すところ
- 色(物質一般)には実体がない(空)、実体がないというありかたが物質一般の真の姿である
- 物質のとりこにならず、執着をはなれる(空)ことによって、真の姿がみえてくる
縁起=関係性
ナーガールジュナ(龍樹)の「火と薪の考察」(「観燃可燃品」)
火が燃え盛っている薪に対して、「ここからが火」「ここからが薪」と区別することはできない。両者は一体となっている。
火が燃える前までは、薪は薪ではなくただの木片である。燃えはじめた薪がなければ、火もまた現れない。火があり、薪がある。というとき、両者は一体であり、相互肯定的である。
火はその状態で停止することがなく、燃え広がるか弱まって消えるかの道をたどる。火が燃えていくことは、薪を減少させることである(薪の否定によって火は肯定される)。火が消えていくことは、薪を二重否定=肯定することである。両者は相互に反対の関係にある。片方の否定によってもう片方が肯定される。
そのまま火を肯定しつづけて、薪が燃え尽きたとき、火は燃え尽きる。火が弱まって消えたとき、薪は存在しなくなる(そこにあるのは薪ではなくただの木材となる)→自己を肯定するために他方を否定し続けた結果、自己否定へつながる。
ここでは火と薪の関係だけに注目したが、世界には、火と薪の周囲には、風や空気や水分などの別の要素も関係し、またそれらの要素を生み出す植物などのほかの実体も加わる。世界の複雑な相互関係は単純な肯定―否定関係では表わせない。
よって「そこに火がある」と単純に断定することはできない→主体はない→無自性である。
よって煩悩にも自性はないので、在家の凡夫でも、仏教の真理に到達できる とする。
如来蔵・仏性思想
ブッダがただひとりの個人ではなく覚者の意味であり、
先に過去仏・未来仏・諸仏が拡大されていることから、
p.203
ブッダ(仏)はさらに拡大されて行く。そしてついには、可能性としてではあるけれども、一切の生あるもの(一切衆生)にまで及ぶようになる。それが如来蔵・仏性の思想である。こうして、仏教は、(前の意味のほかに)仏に成る教えという意味をもつことになる。このような思想は、まったく仏教独自の思想であって、キリスト教にも、イスラーム教にもないし、またそれらの教義上ありえない。
如来蔵の蔵:胎児・母胎という意味から翻訳
p.208
「涅槃経」
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)
(一切衆生は悉く仏性有り)
唯識論
p.212
無相唯識派:摂論(しょうろん)宗
アーラヤ(阿頼耶)識も空として究極的に否定され、見るものと見られるものがわかれない絶対知が得られると説く
有相唯識派:玄奘三蔵による『成(じょう)唯識論』→法相宗の成立→奈良時代に日本に伝来
アーラヤ識を実有の個体とみなし、アーラヤ識が変化して見るものと見られるものが生じると説く=アーラヤ識そのものは否定されない
アーラヤ識:根源的な識知
p.213
『唯識二十論』
大乗の教えによれば、われわれの経験世界はただ識別(vijñapti)のみにすぎない。
>第一頌 この世界はただ識別にすぎない。実在しないものを対象として映出*しているからである。たとえば服病をわずらうものには、実在しない毛髪とか、(二重の)月などが見えるのと同じことである。
この識知そのものが対象として映出されるのである。たとえば服病をわずらうものには、実在しない毛髪とか、(二重の)月などが見えるのと同じであって、対象はまったく存在しない。
*右に「映出」と訳したのは、原語はアーブハーサ(abhāsa)で、ふつうは「顕現」「似現」の訳語が用いられる。「無なるものが有なるものに似て顕現する」といわれるように、実在しないものを実在するかのごとく仮に現わし出すという意味である。
p.214
外界・対象・一切のものは、すべて識別のみにすぎない。それらは実は存在していないのに、存在しているかのごとく現われ出ているのにすぎない。もしも識別ということばで判りにくいならば、表象といってもよい。さらには心のもつイメージといいかえてもよい。いわば心のイメージをもって、わたくしたちをとりまいて存在しているごとくであるけれども、すべては所詮、心のイメージの投影にすぎない、と唯識説は主張する。
認識はアーラヤ識へ還元される=循環する無常思想
→ヨーガ実践の思想はここにつながる
密教
ゴータマ・ブッダの思想は万人に開かれていた&魔術的なものはなかった(神通力を戒めていた)が、ゴータマ・ブッダが神通力をつかう描写は仏伝にある→後世による超人化
大乗仏教にはいると、災害をまぬがれる(病気の治癒や雨乞い・止雨の儀式)などの現世救済的なマジカルな要望が高まる
→クローズドなコミュニティで、呪術・呪言・呪句・神秘的な儀礼を通じて、火を炊き、エクスタシーに入る
真言ダラニ(呪文)
『法華経』『般若心経』
真言:マントラ(mantra)の訳。バラモン教で祭儀につかわれたまじない
p.232
(1)まったく無意味の語から成るもの、(2)無意義の語と有意義の語との両種の語の混合より成るもの、(3)ほとんど有意義の語から成るものの三種がある。
マンダラ:密教の本尊の大日如来を中心に、諸尊を配置した図画。一種のシンボル
印契:手指の形式の印
儀式への参加によって成仏しているので、人間のかかえる煩悩も肯定する
→セックスを通じて即身成仏をみるタントラ仏教につながる
本尊の大日如来のほか、多くの諸仏をまつる
p.238
従来の仏教では説かれなかった多数の明王、仏教外の諸神(=天)、鬼神、神将、諸聖者までもとり入れて、それを大日如来の現われ(権化=アヴァターラ)であるとし(…中略…)マクロとミクロを一つにしたような宇宙を描き出し、それを直観によってとらえようとした。
以上を理論的にではなく、具象的な芸術として表現している
が、大衆に迎合した現世的な思想である密教は、逆にヒンドゥー教に取り込まれ、宗教性を失う。
インド仏教の終末
12世紀末〜13世紀はじめ、イスラーム軍によってインドの仏教遺跡・寺院は破壊され、仏教徒は虐殺される。