世界開在性
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この「世界開在的」や「世界開在性」という言葉は, シェーラーの『宇宙における人間の地位』(以下,『人間の地位』と略記する)にはじめて登場する言葉であ る。たとえば,彼は人間についてこう主張する。「精神的存在者」である人間は,環境世界に拘束されるものではなく,「環境世界から自由(umweltfrei)」であり,「世界開在的(weltoffen)」存在である。すなわち人間とは,「無制限に《世界開在的に 》行動しうる Xである。人間生成とは,精神の力によって世界開在性へと高まることである」(GW9-a, 33/51)。
http://shigyo-sosyu.jp/zayumei/z107.html
人間の生成とは、精神の力によって世界開放性へと高まることである
人間の生成とは、人類の生誕を意味している。その生誕の繰り返しが、人間を生むのだ。つまり、我々が日々新たに、人間と成っていく過程そのものを表わす。人間は、人間と成らなければ人間ではない。我々は、生まれながらの人間ではない。生まれるのは、あくまでも動物としての肉体に限られる。その肉体に宿る人間の精神は、その発生から徐々に自分の力で創り上げていく。精神は、自ら精神の再生を行なうのだ。精神は精神によって成長する。
その精神は、「世界開放性」へと向かっていく。世界開放性とは、脱=現実化ということである。自己の生命を理念化するのだ。自己に与えられた運命が、理想に向かって歩むことを求める衝動に違いない。我々を生み出した宇宙の意志を、この地上に投影する決意だ。閉じ込められた世界に存在する肉体を、無限の宇宙に脱出させるのだ。精神の力によって、それを行なう。それが我々の人生の目的となる。そのために必要なことが、「否」を発する勇気なのだ。
この地上の否定によって、自己の実存が開放される。そして我々の運命は、自由へ向かって羽ばたいて行くのだ。その自由を、あの森有正氏と語り合った日々を忘れない。私はシェーラーを森氏に教わった。そして、この世界開放性を語り合ったのだ。理想に向かって生きることが、人間に与えられた使命なのだ。たとえその理想が、現実に敗れ去ることがあろうとも、我々は人間である限りそうしなければならない。人間であるということは、宇宙の意志をこの双肩に担うことなのだ。