万人に知覚されないモノの意味はアフォーダンスと呼べるのか?
アフォーダンスの実在論についてmrsekut.icon
仮にあるモノAが持つアフォーダンスが100個であると仮定する
ある人間がAを見た時に、知覚できるアフォーダンスはそのうちの10個であり、
また別の人間がAを見た時に、知覚できるアフォーダンスは30個であったとする
それらは重なっているかも知れないし、そうでないかも知れない
これは人間側の経験や知識の差から生じる差であったりすると思う
全人類がAを見た時に知覚できるアフォーダンスの積集合が99個だったとする時に、残りの1個はアフォーダンスと呼べるのか?
という疑問
人間に限定せず、生物まで広げても良い
あるいはこの理解がそもそも間違っているのかも知れない
アフォーダンスが、ある人間とモノの関係なのであるとすれば、
モノAが100個のアフォーダンスを持っている、という仮定がそもそもおかしい
ある人間とAの間に40個のアフォーダンスがあり、
また別の人間とAの間には10個のアフォーダンスがある
いくつかの記事を読んでる感じでは、仮定できるとした話のほうが正しいように思う 「人間からされる行為」を前提としている感じがするが、そういう定義なんだろうか #?? 例えば、ドアっぽい何かであれば、
「押す」「引く」「スライドする」「蹴破る」などのアフォーダンスを持つ
という風に例示される
「ものが持つ意味」であれば、主体はモノなように思えるが、
その例示を見るとやっぱり人間が主体であるように見える
mrsekut.iconが見た例示がたまたまそうなっているだけなのか、アフォーダンスの定義がそもそもそうなのか、本質的にモノというものがそもそもそういうものなのか?
じゃあ、人間を主体としないアフォーダンスって何よ?
例えば、その辺に生えている木とか?
人間に見られたり切られたりされるために存在しているわけではない
勝手に人間が、人間主体でそれを道具として利用しようとしているに過ぎない
「鑑賞する」とか「CO2をへらす」とかも人間主体mrsekut.icon
日本語のwikipediaの一番最初の説明が「環境が動物に対して与える「意味」のこと」であることを見ると、人間(というか動物)が主体になるのが前提なのかなmrsekut.icon そうだとすると、「現時点で、あらゆる人間に知覚されることのない意味」はアフォーダンスとは呼ばないのか