関税
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関税の歴史:古代の通行料から現代の貿易戦争まで
序論
関税の定義:単なる税金を超えて
関税とは、基本的には国境を越えて移動する物品、主として輸入品に対して課される税金である 1。これは、貨物が保税地域から国内に引き取られる際に税関によって徴収され、国庫収入となる 10。
輸出時に課される輸出関税も存在するが、例えば日本では用いられていない 6。
その語源は、アラビア語の「知らせる、定義する」を意味する言葉に由来し、中世イタリア語やフランス語を経て「価格表」や「税率表」を意味するようになったとされる 12。
しかし、関税はその単純な定義を超え、歴史を通じて国家の経済政策、外交戦略、さらには国際関係の力学を映し出す複雑な手段として機能してきた。
二つの目的:財政収入と国内産業保護
歴史的に、関税には二つの主要な目的が存在してきた。
第一は、国家財政の収入源を確保すること(財政関税)であり、
第二は、国内の産業を外国との競争から保護すること(保護関税)である 3。
古代から近代初期にかけては、特に恒常的な税収基盤が未発達な国家にとって、関税は重要な財源であった 11。しかし、国家財政の規模が拡大し、所得税などの直接税が整備されるにつれて、特に先進国においては財政収入としての関税の重要性は相対的に低下し、国内産業保護の側面がより強調されるようになった 10。輸入品に関税を課すことでその価格を引き上げ、国内製品の価格競争力を相対的に高めることで、国内産業の育成や維持を図るのである 4。 これら主要な目的に加え、関税は貿易相手国に対する交渉手段(互恵主義)や報復措置、安全保障上の懸念への対応、消費者の安全確保といった多様な目的のためにも利用されてきた 4。
歴史的変遷と論争の概観
本稿では、関税の歴史的変遷を、その起源から現代に至るまで包括的に考察する。
古代における手数料や通行料としての初期形態から始まり 11、
重商主義時代には国家権力強化の戦略的手段として位置づけられた。
産業革命期には、自由貿易主義と保護主義のイデオロギー対立の焦点となり、
19世紀から20世紀初頭にかけては、関税戦争が国際経済に深刻な影響を与えた。
特に、世界恐慌期における保護主義の蔓延は、その後の国際経済秩序のあり方に大きな教訓を残した。
第二次世界大戦後は、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)及びその後継であるWTO(世界貿易機関)の下で、多角的な関税引き下げと貿易自由化が進められた。
しかし、現代においても、地域経済連携協定(FTA/EPA)の普及、反ダンピング関税やセーフガードといった貿易救済措置の活用、さらには米中貿易摩擦に代表されるような新たな保護主義の台頭や、気候変動対策と連動した炭素国境調整メカニズム(CBAM)の導入など、関税は形を変えながら国際経済における重要な論点であり続けている。
この歴史は、経済的必要性、国内政治の力学、国際関係、そして貿易に関する思想の変遷が複雑に絡み合い、自由化と保護主義の間を揺れ動いてきた軌跡を描き出している。 第1節 古代の起源と中世の先例
古代における収入源と統制
関税の最も初期の形態は、古代文明における手数料や通行税にまで遡ることができる 11。これらの徴収は、主として国家や都市の財政収入を確保することを目的としていた。
例えば、古代ギリシャのアテネでは、主要な港であったピレウス港に到着する輸入品、特に重要な食料であった穀物に対して2%の税が課されていた 12。これはアテネ政府の歳入源となると同時に、ピレウス港以外での穀物輸入や関連する金融取引を制限することで、貿易ルートを統制する役割も果たしていたと考えられる 12。
古代ローマ帝国においても、広大な領土内での交易や、地中海貿易を通じて得られる富から関税が徴収され、国家財政を支える重要な要素となっていた 17。ローマ市民への食料供給や公共事業、軍事費などの財源として、輸入品に対する税は不可欠だったのである 17。同様の慣行は、アッシリア帝国や古代エジプトでも見られ、領域内を通過する隊商や都市、港を利用する貿易に対して通行料や使用料が課されていた 17。遠くはシュメール文明の粘土板にも、6000年前に遡る取引への課税記録が見られることから 17、交易活動からの収入徴収は、国家形成の非常に早い段階から存在していたことがうかがえる。また、シルクロードなどを通じた古代の長距離交易 29 も、こうした課税の対象となっていたであろう。
これらの初期の関税・通行料は、単なる財政収入確保にとどまらず、特定の交易ルートや市場へのアクセスを管理・統制する機能も有していた。アテネがピレウス港での穀物輸入を強制した例 12 は、単に税を徴収しやすい場所を指定しただけでなく、食料供給という戦略的に重要な物資の流れを国家管理下に置こうとする意図を示唆している。このように、財政収入と交易の統制・管理という関税の二重性は、その起源において既に萌芽が見られたと言える。
中世の通行税、市場税、そして初期の保護
中世ヨーロッパにおいても、関税やそれに類する様々な形態の徴収が続けられ、発展した。
封建領主や修道院は、自領内で開かれる市場において、商人から市場税(関税や屋台使用料などを含む)を徴収し、これを重要な収入源とした 34。その見返りとして、領主は市場の平和を維持し、紛争を調停する市場裁判を開いたり、遠隔地商人を保護したりする役割を担った 34。
また、交通の要所には関所が設けられ、通行する人馬や船から通行税(日本では「関銭」と呼ばれる 35)が徴収された。これは純粋な財政収入目的だけでなく、特定の領域への出入りを管理する意味合いも持っていた。
現代のように移動が自由ではなかった。居住・移転の自由は最初は経済的自由権として成立した基素.icon 知るためには移動が必要なので憲法22条1項と言う側面もある
中世日本では、商人や手工業者の同業組合である「座」が、幕府や寺社に運上金と呼ばれる一種の税金を納めることで、営業権の保護を受ける仕組みも存在した 35。これは輸入品に対する関税とは異なるが、特定の経済活動に対する課税と保護が結びついた初期の形態と見なせる。
中世後期になると、財政収入に加えて、国内産業保護の意図がより明確に関税政策に現れるようになる。
特にイングランドでは、君主が自国の産業、とりわけ羊毛産業の育成のために、関税や貿易規制を積極的に用いた 12。
14世紀のエドワード3世は、国内の毛織物製造業を発展させるために、羊毛織物の輸入を禁止した 12。
15世紀末以降のテューダー朝、特にヘンリー7世、ヘンリー8世、エリザベス1世は、生羊毛の輸出に関税を課して国内での加工を促したり、補助金や独占権を与えたり、時には産業スパイ活動まで用いて、イングランドを世界最大の羊毛生産国へと押し上げた 12。
これらの政策は、外国製品との競争から国内の職人や初期の製造業を守り、国家の経済的基盤を強化しようとする明確な保護主義的意図を示している。
中世における「関税」の概念は、現代ほど明確に国境関税に限定されておらず、市場への入場料、橋や河川の通行料、特定の組合が納める上納金など、多様な形態を含んでいた 11。これは、当時の政治的・経済的な権力が分散し、領域国家の境界が未だ流動的であった状況を反映している。しかし、これらの多様な徴収の中に、財政収入確保という古来からの目的に加え、特定の産業や商人を保護・育成し、外国との競争を意識した管理・統制を行おうとする動きが次第に強まっていったことは、近代国家における関税政策の萌芽として注目される。
第2節 重商主義時代:国家権力の道具としての関税(16~18世紀頃)
重商主義の教義
16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで支配的となった経済思想・政策が重商主義である 37。重商主義の根幹には、国家の富と権力は、保有する貴金属(金銀、すなわち貨幣)の量に直接結びついているという考え方があった 37。 当時のヨーロッパでは、世界の富の総量は固定的(ゼロサムゲーム)であると考えられており、一国が富を増やすためには、他国から富を奪う必要があると信じられていた 40。この富(貴金属)を蓄積するための最も重要な手段が、貿易収支の黒字、すなわち輸出額が輸入額を上回る状態(出超)を維持することであった 37。輸出は国内に貴金属をもたらし、輸入はそれを国外に流出させると考えられたためである 40。
重商主義の初期段階は「重金主義(Bullionism)」と呼ばれ、鉱山開発や直接的な貴金属獲得、そして貴金属の輸出禁止といった政策に重点が置かれた 37。
しかし、次第に貿易差額の最大化を通じて間接的に貴金属を蓄積する「貿易差額主義」へと移行していった 37。この貿易差額主義を実現するために、国家は経済活動、特に貿易に対して積極的に介入し、管理する必要があるとされた 37。これは、絶対王政下のヨーロッパ諸国において、常備軍の維持や宮廷の運営、戦争遂行のために莫大な資金が必要であったという政治的背景とも密接に関連していた 37。
重商主義の主要な道具としての関税
貿易差額を最大化し、国内産業を育成するという重商主義の目標達成において、関税は極めて重要な役割を果たした 24。具体的には、以下のような関税政策が普遍的に採用された。
輸入完成品に対する高関税: 国内産業と競合する外国の完成品に対して高い関税を課し、その輸入を抑制する 24。
輸入原材料に対する低関税または無関税: 国内での加工・製造に必要な原材料については、関税を低く抑えるか、免除することで、国内産業のコスト競争力を支援する 12。
特定輸入品の輸入禁止: 国内産業保護のため、特定の競合製品の輸入を完全に禁止する場合もあった 12。
輸出奨励金(補助金): 国内製品の輸出を促進するために、補助金が支給されることもあった 12。
貴金属・原材料・道具・熟練労働者の輸出禁止: 国富の源泉たる貴金属や、他国の産業発展につながる可能性のある原材料、製造機械、熟練した労働者の国外流出を厳しく制限した 24。
これらの政策は、国内産業を保護・育成し、輸出を最大限に増やし、輸入を最小限に抑えることで、貿易黒字を生み出し、国家に貴金属をもたらすことを目的としていた 38。
ケーススタディ:イギリスの航海法
イギリスにおける重商主義政策の代表例が、1651年に制定された航海法(航海条例)である 38。この法律は、イングランドとその植民地との貿易、およびイングランドへの輸入品の輸送を、イングランド船籍(または船籍国)の船に限定し、乗組員の一定割合をイングランド人とすることを義務付けた 47。その明確な狙いは、当時、中継貿易で圧倒的な力を持っていたオランダを、イングランドの貿易圏から排除することにあった 45。
航海法は、イギリスの海運業と商人階級を保護・育成し、国家の海上輸送能力を強化することを目的としていた 38。結果として、イギリスの商船隊は大きく成長し、海軍力の基盤ともなった 38。しかし、この排他的な政策は、オランダとの深刻な対立を引き起こし、複数回にわたる英蘭戦争の主要な原因の一つとなった 38。また、植民地に対しては、本国以外の国との貿易を禁止し、特定の産品(列挙商品)を本国経由でのみ輸出入させるなど、厳しい貿易統制を課したため、植民地住民の不満を高め、後のアメリカ独立革命の一因ともなった 38。航海法は、その後、内容を変えながらも19世紀半ばまで存続したが、自由貿易主義の台頭とともに1849年に廃止された 57。これに加えて、毛織物法、帽子法、糖蜜法、鉄法など、植民地の製造業や貿易を制限する様々な法律が制定され、本国の産業保護と経済的利益が追求された 59。
ケーススタディ:フランスのコルベール主義
フランスにおける重商主義は、ルイ14世の下で財務総監を務めたジャン=バティスト・コルベールの名をとって「コルベール主義」と呼ばれる 38。コルベールは、国家が経済を強力に指導・統制すべきであると考え、フランスの産業育成と輸出振興に努めた 38。 その政策は多岐にわたる。国内産業保護のために、外国製品、特に競合する工業製品に対して高率の保護関税を導入した(1664年、1667年の関税法など) 38。一方で、国内産業に必要な原材料の輸入は奨励された。国内の製造業を発展させるため、王立マニュファクチュア(特権的な大規模工場)を設立・保護し、ギルド(同業者組合)を組織化して生産を管理した 38。製品の品質向上のため、厳格な品質基準を設け、違反者には罰則を科した 41。外国から熟練した職人を招聘し、技術導入も図った 38。さらに、国内の交易を円滑にするため、国内関税の削減や、道路・運河網の整備といったインフラ投資も行った 38。貿易振興策としては、フランス東インド会社や西インド会社を再建・設立し、植民地獲得と海外市場開拓を推進した 45。商船隊の育成にも力を入れた 41。
コルベールの政策は、フランスの工業生産力を高め、国内経済を大きく成長させることに成功し、ルイ14世時代のフランスの国力と栄華を支えた 38。しかし、極端な保護関税政策は、オランダなど他国との対立を招き、仏蘭戦争の一因となった 38。また、その富はルイ14世の宮廷での浪費や度重なる戦争によって消耗され、コルベールの死後、フランス経済は停滞期を迎えることになる 64。アダム・スミスは後に、コルベール主義を、自由な経済活動を阻害し、農業を犠牲にして特定の産業を不当に優遇するものとして批判した 56。
関税、植民地、そして帝国の経済支配
重商主義体制において、植民地は不可欠な要素であった 37。植民地は、本国が必要とする原材料(砂糖、タバコ、木材、毛皮など)の安価な供給源であり、同時に、本国で生産された完成品の独占的な市場(輸出先)と見なされた 38。この本国中心の経済システムを維持・強化するために、関税や様々な貿易規制が用いられた。航海法のように、植民地が本国以外の国と直接貿易することを禁止したり 38、特定の製品の生産を制限したりすることで 19、植民地経済を本国の利益に従属させた。このような体制は、本国(宗主国)に富をもたらす一方で、植民地の経済的自立を妨げ、住民の不満を蓄積させる結果となった 38。アメリカ独立革命の背景には、こうした重商主義的な貿易統制に対する反発があったことは広く知られている 38。
重商主義の時代は、関税が単なる財政収入や受動的な国内保護の手段を超え、国家建設と国際競争における積極的・戦略的な道具として最大限に活用された時代であったと言える。国家が貿易を管理・統制し、関税を駆使して輸出を最大化し輸入を最小化することで国富(貴金属)を蓄積し、それを軍事力や国威発揚に繋げようとしたのである。この時代の経験は、関税が経済だけでなく、政治や国際関係にも深く関わるものであることを明確に示している。ただし、その具体的な政策形態は、各国の置かれた状況や優先順位によって異なっていた。海洋国家イギリスが海運支配に重点を置いたのに対し、大陸国家フランスが国内産業の直接的な育成・統制に力を入れたことは、その後の両国の経済発展の経路にも影響を与えた可能性がある。
第3節 産業革命、イデオロギー、そして関税を巡る対立(1760年代~1900年頃)
産業革命の影響
18世紀後半から19世紀にかけて進行した産業革命(18世紀後半)は、経済構造を根本的に変容させ、関税を巡る議論と政策に大きな転換をもたらした 12。世界で最初に産業革命を経験したイギリスは、その初期段階においては、国内の未熟な産業を保護するために高い関税(19世紀初頭の工業製品に対する平均関税率は約50%に達した)を含む保護主義的な政策を維持していた 12。これは、先行する重商主義的な考え方の延長線上にあり、新興産業が国際競争に耐えうる力をつけるまでの育成期間と見なされた 12。しかし、産業革命が進展し、イギリスが「世界の工場」としての圧倒的な生産力と競争力を持つようになると、状況は変化した。製造業者たちは、より安価な原材料の輸入と、自国製品の輸出市場拡大を求めるようになり、従来の保護主義的な政策、特に関税障壁に対する不満を強めていった 60。これが、19世紀イギリスにおける自由貿易主義への転換を促す大きな原動力となった。 自由貿易理論の台頭(スミス、リカード)
産業資本家の利益と軌を一にする形で、自由貿易を理論的に正当化する経済学が登場した。その先駆者がアダム・スミスである。1776年に出版された『国富論(諸国民の富)』において、スミスは重商主義的な国家介入を批判し、個人の利己心に基づく自由な経済活動が「見えざる手」によって社会全体の富を増大させると主張した(レッセフェール、自由放任主義) 52。彼は、各国が生産において絶対的な優位性を持つ分野に特化し、自由に貿易することで、世界全体の生産性が向上すると論じた 77。 スミスの理論をさらに発展させたのが、デヴィッド・リカードである。彼は1817年の『経済学及び課税の原理』において、「比較優位」の理論を提唱した 60。比較優位論は、ある国がすべての財の生産において他国より効率的であったとしても(絶対優位)、各国が相対的に得意な(機会費用の低い)財の生産に特化し、貿易を行えば、双方の国が利益を得られることを示した 76。 例えば、ポルトガルがワイン生産に、イギリスが毛織物生産に比較優位を持つ場合、両国がそれぞれ特化して貿易すれば、両国ともにより多くのワインと毛織物を消費できるようになる、というものである 74。この比較優位論は、自由貿易の利益をより強力に理論づけ、保護主義に対する批判の根拠となった。スミスとリカードの理論は、19世紀の自由貿易運動に知的な武器を提供し、政策転換を後押しした。
保護主義の反論(リスト)
イギリスで自由貿易論が勢いを増す一方で、産業化で遅れをとっていた国々からは、異なる視点からの主張が現れた。その代表格が、ドイツの経済学者フリードリッヒ・リストと、彼に代表されるドイツ歴史学派である 79。 リストは、アダム・スミスの経済学を、普遍的な法則を主張する「万民経済学」あるいは「コスモポリタニズム」であると批判し、
それが産業的に成熟したイギリスの国益には合致するかもしれないが、
発展途上にあるドイツのような国には適用できないと論じた 24。
彼は、経済政策は各国の歴史的状況や発展段階に応じて異なるべきだと主張した。
リストの経済思想の核心は以下の点にある。
国民経済論: 個々の人間や世界全体ではなく、「国民」または「国民経済」を分析の単位とし、国家の役割を重視した 81。
生産力論: 国の豊かさの源泉は、単に交換価値(富の蓄積)にあるのではなく、富を生産する能力、すなわち「生産力」にあるとした 81。彼は、物質的な資本だけでなく、教育、技術、制度、インフラといった「精神的資本」を含む広範な生産力の育成こそが、長期的な経済発展に不可欠であると強調した 84。
経済発展段階説: 国民経済は、未開状態、牧畜状態、農業状態、農工業状態、農工商業状態といった段階を経て発展すると考えた 81。そして、それぞれの段階において、国家は異なる経済政策を採用すべきであるとした。
幼稚産業保護論: 農業国が工業国へと移行する段階においては、国際競争力のない国内の未熟な(幼稚な)工業を、関税によって一時的に保護する必要があると主張した 19。これは、自由貿易下では先進国の強力な工業製品によって国内産業が育つ前に淘汰されてしまうためである。ただし、この保護はあくまで一時的なものであり、工業力が十分に発展し、国際競争に耐えられるようになった段階では自由貿易に移行すべきであるとした 84。また、保護の対象は基本的に工業製品に限定され、農業や原材料は対象外とされるべきだと考えた 84。
素朴に考えるとこれ思いつくよね。ただほんとなのかはどう証明する?基素.icon
思想レベルでは、いくらでも真逆の結論が導ける
それが意味があるかは根拠の強さ
この考え方は学者的
政治家の中には他人を動かせる物語ならなんでもいいという人もいるだろう
リストの理論は、後発工業国が自国の産業を育成し、先進国に追いつくための理論的根拠を提供し、ドイツやアメリカなどの保護主義政策に大きな影響を与えた。
19世紀前半のイギリスにおける自由貿易主義と保護主義の対立を象徴するのが、穀物法を巡る論争である。穀物法は、ナポレオン戦争終結後の1815年に制定され、地主階級の利益を守るため、輸入穀物に対して高い関税を課すものであった 12。これにより、国内の穀物価格は高く維持された。
この法律に対して、産業資本家と労働者階級は強く反発した 61。産業資本家にとっては、穀物価格の高騰は労働者の賃金上昇圧力となり、生産コストを増加させた 62。また、穀物輸入制限は、イギリスの工業製品を輸入したい国々の支払い能力を削ぎ、輸出の妨げにもなった 61。労働者にとっては、主食であるパンの価格上昇は生活を直接圧迫した 61。
1838年(または1839年)、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスターの産業資本家を中心に「反穀物法同盟」が結成され、強力な廃止運動を展開した 61。彼らは、集会、パンフレット、請願活動などを通じて世論を喚起し、議会に圧力をかけた。
穀物法廃止の決定的な契機となったのは、1845年にアイルランドで発生したジャガイモ飢饉である 61。飢饉により食糧不足が深刻化し、安価な輸入穀物の必要性が切迫した。保守党党首でありながら自由貿易の考えを持っていた首相ロバート・ピールは、自党内の強い反対を押し切り、1846年に穀物法廃止法案を成立させた 61。この出来事は、イギリスにおける自由貿易主義の確立を象徴するものであり、地主階級の政治的影響力の低下と、産業資本家階級の台頭を示す画期的な出来事であった 60。
穀物法廃止に続き、1849年には重商主義時代の象徴であった航海法も廃止され、イギリスは自由貿易体制へと大きく舵を切った 60。
工業化途上国の関税政策(アメリカ、ドイツ)
産業革命の先駆者であったイギリスが自由貿易へと移行したのに対し、後発の工業国であるアメリカやドイツは、19世紀を通じて保護主義的な関税政策を維持、あるいは強化した。
アメリカ合衆国: 建国初期から、関税は連邦政府の主要な歳入源であった(1913年の所得税導入まで) 18。初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは、財政収入だけでなく、幼稚産業保護と国防上の観点から保護関税の必要性を強く主張した 18。19世紀を通じて、関税率は政治的な対立の焦点となり続けた。工業化が進む北部諸州は国内産業保護のために高関税を支持し、綿花などの農産物輸出に依存する南部諸州は安価な輸入品を求めて低関税を主張した 18。南北戦争後も、共和党政権下で高関税政策が維持され、アメリカの急速な工業化を(少なくとも部分的には)支えたとされる 18。ただし、高関税がアメリカの工業化の主たる要因であったかについては、人口増加、移民、資源、技術革新など他の要因も大きく、歴史家の間でも議論がある 66。
ドイツ: 19世紀前半、フリードリッヒ・リストの思想的影響の下、プロイセン主導でドイツ関税同盟(Zollverein)が1834年に結成された 24。これは、加盟邦間の関税を撤廃し、対外的には統一関税を設けることで、ドイツ国内市場の統合と経済発展を目指すものであった 79。ドイツ帝国成立後、宰相オットー・フォン・ビスマルクは、当初の自由貿易的な傾向から転換し、1879年に「鉄と穀物の関税」と呼ばれる保護関税法を制定した 63。これは、1873年恐慌後の不況、安価なアメリカ産穀物の流入による東部ユンカー(大地主)層からの圧力、そして鉄鋼をはじめとする国内重工業の保護要求に応えるものであった 96。また、関税収入による国家財政の強化という目的もあった 99。この政策転換は、ビスマルクの政治基盤が国民自由党から保守派へと移行したことを示している 96。その後も、1885年などに関税はさらに引き上げられた 102。
産業革命期における関税政策の展開は、一国の経済発展段階と国内の主要な経済的利害関係者の力関係によって、その方向性が大きく左右されることを示している。先行して工業化を達成したイギリスは、自国の比較優位を最大限に活かすために自由貿易を選択した。一方で、後発のアメリカやドイツは、先進国イギリスに対抗し、国内産業を育成するために保護主義的な関税政策を戦略的に活用したのである。また、自由貿易(スミス、リカード)と保護貿易(リスト)を巡る理論的対立は、単なる学術論争にとどまらず、地主、産業資本家、労働者といった異なる階級間の政治的・経済的利害の衝突を反映し、それを正当化するためのイデオロギーとして機能した。穀物法を巡るイギリスでの激しい論争は、その典型例であった。
第4節 関税戦争と世界経済危機(1870年代~1945年頃)
「長い不況」(1873-1896年)と保護主義の再燃
19世紀半ばにイギリスが自由貿易へと移行し、他のヨーロッパ諸国もそれに追随する動きを見せたが、1873年に始まる「長い不況」と呼ばれる経済停滞期は、再び保護主義を呼び戻す契機となった 79。この不況は、鉄道建設ブームの終焉、金融危機、そしてアメリカ大陸やロシアからの安価な農産物の大量流入による農産物価格の暴落などを背景としていた 95。
価格下落と国際競争の激化に直面した大陸ヨーロッパ諸国やアメリカでは、国内の農業や工業を保護しようとする圧力が高まった。その結果、1870年代後半から、多くの国が自由貿易的な政策を放棄し、関税を引き上げる方向に転換した 24。ドイツにおけるビスマルクの1879年の保護関税導入 96 や、フランスにおける1892年のメリーヌ関税 95 はその代表例である。これらの保護主義への回帰は、国際貿易の成長を鈍化させ、国家間の経済的対立を深める要因となった 95。一方で、工業製品の輸出に依存し、食料輸入国となっていたイギリスや、中継貿易国であったオランダなどは、比較的低い関税率を維持し続けた 95。
対立の激化:マッキンリー関税(1890年)
アメリカ合衆国における保護主義の高まりを象徴するのが、1890年に制定されたマッキンリー関税法である 95。共和党のウィリアム・マッキンリー(後の大統領)が主導したこの法律は、輸入品に対する平均関税率を約50%近くまで引き上げるもので、当時のアメリカ史上最高水準であった 26。その主な目的は、共和党の公約通り、アメリカの産業と労働者を外国との競争から保護することにあった 66。
具体的には、羊毛製品やブリキ板(tinplate)など、多くの工業製品に対する関税が大幅に引き上げられた 103。特にブリキ板については、国内産業の育成を狙って関税率が30%から70%へと引き上げられ、一定期間内に国内生産が輸入量の3分の1に達しなければ無税にするという特異な条項も盛り込まれた 103。一方で、砂糖、糖蜜、コーヒー、茶、皮革などは無税とされたが、これは他国に関税引き下げを促すための交渉材料とする意図があった(互恵条項) 103。大統領は、これらの品目を輸出した国がアメリカの輸出品に対して「相互に不平等かつ不合理な」扱いをした場合、関税を復活させる権限を与えられた 103。実際に、この権限を背景に、アメリカは10の二国間協定を結び、相手国の関税引き下げを実現した 103。
しかし、マッキンリー関税は国内経済と国際関係に複雑な影響をもたらした。輸入品価格の上昇は、アメリカの消費者に負担を強いた 103。ブリキ板産業は確かに発展が加速したが、それは高いコストを伴うものであった 66。砂糖が無税化された影響で、関税収入全体は一時的に減少した 103。そして、この高関税政策は国民の不評を買い、1890年の中間選挙で共和党は大敗を喫した 103。国際的にも、イギリス帝国などで報復関税や特恵関税制度を求める声が高まるなど、貿易摩擦を激化させる要因となった 95。
戦間期の破局:スムート・ホーリー法(1930年)
第一次世界大戦後の世界経済は、戦債や賠償金の問題、ヨーロッパ諸国の復興の遅れ、そしてアメリカにおける農業不況など、多くの困難を抱えていた 108。1929年10月のウォール街での株価大暴落(暗黒の木曜日)に端を発する世界恐慌は、これらの問題を一層深刻化させた。
このような状況下で、アメリカでは国内産業、特に苦境にあった農業を保護しようとする声が強まり、1930年6月、スムート・ホーリー法(正式名称:1930年関税法)が制定された 21。この法律は、農産物だけでなく工業製品を含む2万品目以上の輸入品に対して関税を平均で約20%(税率ベースでは40%台から50%台へ)引き上げるものであった 21。1000人以上の経済学者が法案への拒否権発動をフーヴァー大統領に求める請願書を提出するなど、専門家からは強い反対があったにもかかわらず、法案は成立した 63。
報復と貿易崩壊
スムート・ホーリー法の制定は、国際社会からの強い反発を招いた。カナダ、ヨーロッパ諸国をはじめとする主要な貿易相手国は、次々とアメリカ製品に対する報復関税を導入した 63。これにより、世界的な関税引き上げ競争、すなわち「貿易戦争」が勃発した。
その結果は壊滅的であった。世界の貿易量は、1929年から1934年の間に約3分の2も減少したと推計されている 108。アメリカ自身の輸出入も激減し、例えばヨーロッパとの貿易額は1929年から1932年の間に約3分の1にまで落ち込んだ 108。特にアメリカの農産物輸出は深刻な打撃を受けた 113。
世界恐慌の深化
経済学者や歴史家の間では、スムート・ホーリー法が世界恐慌の根本原因ではないものの、恐慌を著しく悪化させ、長期化させたという見方が広く共有されている 26。国際貿易の急激な縮小は、各国の生産活動を停滞させ、失業を増大させた。また、報復関税の応酬は国際関係を悪化させ、経済的な苦境からの脱却に向けた国際協調を困難にした。このような、自国の利益のみを追求し、他国の犠牲において経済回復を図ろうとする政策は、「近隣窮乏化政策(beggar-thy-neighbor policy)」と呼ばれ、その典型例としてスムート・ホーリー法が挙げられる 24。 経済ブロックの時代
スムート・ホーリー法とその後の報復関税合戦によって多角的な貿易体制が崩壊した結果、世界経済は排他的な経済ブロックへと分裂していった 24。広大な植民地帝国を持つイギリスやフランスは、本国と植民地・自治領との間で特恵関税制度を設け、域外からの輸入品には高い関税を課すことで、自らの経済圏(スターリング・ブロック、フラン・ブロック)を守ろうとした 63。アメリカもドル圏(ドル・ブロック)を形成した 125。
一方で、ドイツ、イタリア、日本といった、植民地をほとんど持たないか、あるいは第一次世界大戦で失った「持たざる国」は、これらの経済ブロックから締め出され、深刻な経済的困難に直面した 124。資源や市場へのアクセスを絶たれたこれらの国々では、対外膨張によって経済的苦境を打開しようとする動きが強まり、ファシズムや軍国主義が台頭した 124。ドイツは東ヨーロッパへの「生存圏」拡大を目指し、イタリアは地中海・アフリカへの進出を図り、日本は「大東亜共栄圏」構想の下でアジアにおける円ブロックの確立を狙った 124。このように、経済ブロック化は世界経済を分断し、国際的な緊張を高め、最終的には第二次世界大戦勃発の遠因の一つとなったと考えられている 24。
この時代の関税政策の歴史は、経済危機がいかに容易に保護主義的な衝動を呼び起こしうるか、そして、一度始まった関税引き上げ競争と報復の連鎖がいかに破滅的な結果をもたらしうるかを明確に示している。各国が自国の短期的な利益のみを追求し、国際協調を怠った結果、世界全体がより深い危機へと陥っていった。この「負の教訓」は、第二次世界大戦後の国際経済秩序を構想する上で、極めて重要な出発点となった。保護主義と経済ブロック化への反省が、戦後のGATT体制に代表される多角的自由貿易体制の構築へと繋がっていくのである。
第5節 GATT体制:多角的自由主義と関税引き下げ(1947-1994年)
第二次世界大戦の惨禍と、それに至る過程での保護主義、経済ブロック化、貿易戦争への深い反省から、戦後の国際社会では、安定した国際経済秩序の構築が急務とされた 71。アメリカ合衆国とイギリスが主導し、自由で開かれた多角的な貿易体制が、経済的繁栄のみならず、国際平和の維持にも不可欠であるという認識が広まった 71。
この構想に基づき、1944年にニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開催された連合国通貨金融会議において、戦後の国際通貨・金融システムの中核となる国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD、通称世界銀行)の設立が合意された 71。これらに加えて、国際貿易を規律するための専門機関として国際貿易機関(ITO)の設立も計画されたが、主にアメリカ議会の批准が得られなかったため、ITO憲章(ハバナ憲章)は発効せず、ITOは実現しなかった 71。
ITO設立交渉と並行して、関税引き下げ交渉が進められており、その成果を実施するため、そしてITO発効までの暫定的な措置として、1947年10月に23カ国によって「関税及び貿易に関する一般協定(General Agreement on Tariffs and Trade, GATT)」が署名され、1948年1月1日に暫定的に発効した 127。
ITOが実現しなかった結果、この「暫定的な」協定であるGATTが、その後約半世紀にわたり、事実上の国際貿易体制の基本ルールとして機能することになった 71。
GATTの主な目的は、関税およびその他の貿易障壁を相互的かつ互恵的な方法で削減・撤廃し、国際貿易における差別的な待遇をなくすことであった 71。これにより、貿易の自由化を通じて、生活水準の向上、完全雇用の達成、持続的な経済成長を目指した 145。
GATTの基本原則
GATT体制を支えた主要な原則は以下の通りである。
無差別原則:
最恵国待遇(Most-Favored Nation, MFN): ある加盟国が特定の輸入品に対して他のいずれかの国(最も有利な待遇を与えている国)に与える有利な待遇(関税率など)は、他のすべてのGATT加盟国に対しても即時かつ無条件に与えなければならないという原則 71。これにより、二国間での有利な取り決めが他の国を排除することを防ぎ、多角的な貿易体制の基礎を築いた。
内国民待遇(National Treatment): 輸入された産品が国内市場に入った後は、税金や国内法令の適用において、同種の国内産品よりも不利にならないように扱わなければならないという原則 71。これにより、関税以外の国内措置による保護主義的な差別を防ぐことを目指した。
互恵主義(Reciprocity): 関税引き下げなどの貿易自由化措置は、一方的なものではなく、交渉相手国との間で相互に行われるべきであるという原則 143。これにより、自由化の利益と負担を公平に分かち合い、「フリーライド(ただ乗り)」を防ぐことを意図した。
透明性(Transparency): 各加盟国は、自国の貿易に関する法令や規則を公表し、他の加盟国からの情報提供要請に応じる義務を負う 137。貿易政策検討制度(TPRM)などを通じて、各国の政策の透明性を高める努力がなされた。
関税による保護と関税譲許(Binding): 国内産業の保護手段としては、原則として関税のみが認められ、輸入数量制限(クオータ)などは原則禁止された 130。さらに、多角的交渉を通じて合意された関税率(譲許税率、バインディングレート)は、各国が約束した上限として拘束力を持ち、一方的に引き上げることはできないとされた 137。
セーフティバルブ(Safety Valves): 例外的に、国内産業への深刻な損害を防止するための緊急輸入制限(セーフガード)、不公正な貿易慣行(ダンピング、補助金)に対抗するための措置、あるいは公衆衛生や環境保護といった正当な目的のために、貿易制限措置をとることが認められた 149。
関税引き下げ交渉:主要ラウンド
GATTの下では、関税および非関税障壁の削減を目的とした多角的な貿易交渉が、断続的に「ラウンド」として開催された 71。これらのラウンドを通じて、世界の関税水準は段階的に引き下げられていった。 初期ラウンド(1947年~1962年): ジュネーブ(1947年)、アヌシー(1949年)、トーキー(1951年)、ジュネーブ(1956年)、ディロン(1960-62年)の計5回のラウンドでは、主に二国間で個別の品目ごとに関税引き下げを交渉する方式が採られた 139。1947年の最初のジュネーブ・ラウンドでは、45,000品目に及ぶ関税譲許が合意され、当時の世界貿易の約半分に影響を与えたとされる 139。これらの初期ラウンドにより、GATT発足時の平均約22%(しばしば誤って40%とされるが、近年の研究では22%程度と推定されている 132)だった主要国の関税率は、着実に引き下げられていった 132。
ケネディ・ラウンド(1964-67年): これまでの品目別交渉から、工業製品全般について一律の比率で関税を引き下げる「リニアカット方式(一括引き下げ方式)」が導入された画期的なラウンドであった 130。これにより、工業製品の関税は平均で約35%削減された 130。また、関税以外の貿易障壁として、アンチダンピング措置に関するルールも初めて交渉された 139。参加国も62カ国に増加した 146。
東京ラウンド(1973-79年): ケネディ・ラウンドに続き、関税の一括引き下げ(鉱工業品で平均約33%削減)が行われた 130。このラウンドの重要な成果は、関税削減に加えて、補助金、政府調達、技術基準(規格)、輸入許可手続きといった「非関税障壁(NTBs)」に対する新たな規律(コード)が策定された点にある 137。これにより、貿易自由化の対象が関税以外の分野にも拡大した。参加国は102カ国に達した 146。
ウルグアイ・ラウンド(1986-94年): GATT史上最大規模かつ最も野心的なラウンドとなった 140。このラウンドの最大の成果は、GATT体制を発展的に解消し、恒久的な国際機関である世界貿易機関(WTO)を設立することで合意した点である 127。交渉分野も大幅に拡大され、従来の物品貿易に加え、サービス貿易(GATS)、知的所有権の貿易関連側面(TRIPS)、貿易関連投資措置(TRIMs)といった新たな分野が包括的に扱われた 128。長年の懸案であった農業分野や繊維・衣類分野の貿易自由化についても、重要な合意がなされた 130。関税については、鉱工業品でさらに平均約40%の削減が合意され 140、ラウンド終了後の平均関税率は約5%にまで低下した 132。また、紛争解決手続きが大幅に強化され、より迅速かつ実効性のあるものとなった 140。参加国は123カ国に上った 146。
GATT/WTO ラウンド交渉の概要
https://gyazo.com/279f9eacd51d27043c1ca44123334e1d
https://gyazo.com/b0f7ca0869a83c4367ad1f8d122ea581
出典: 140 を基に作成。参加国数や期間は資料により若干の差異あり。
GATT体制は、当初の「暫定的」な性格や、正式な国際機関としての基盤を持たないという弱点を抱えながらも、多角的交渉ラウンドを通じて世界の関税水準を劇的に引き下げ、貿易量を拡大させる上で、驚くほど効果的かつ適応的な枠組みであった。その成功は、戦後の世界経済の成長に大きく貢献した。しかし、時代が進むにつれて、関税以外の貿易障壁(非関税障壁)の重要性が増し、またサービス貿易や知的財産権といった新たな課題が浮上する中で、GATTの枠組みは限界を露呈し始めた。これが、より強力で包括的な国際機関であるWTOへの移行を促す背景となったのである。 第6節 グローバル化時代の現代関税(1995年~現在)
WTO:制度化と範囲拡大
1995年1月1日、ウルグアイ・ラウンド合意に基づき、GATTを発展的に解消する形で世界貿易機関(World Trade Organization, WTO)が設立された 127。WTOは、GATT時代の原則(無差別、互恵、透明性など)を継承しつつ、いくつかの重要な点で体制を強化した 141。 第一に、WTOはGATTのような暫定的な協定ではなく、恒久的な国際機関として設立された 128。これにより、多角的貿易体制の運営と監視のためのより安定した基盤が提供された。
第二に、WTOの対象範囲はGATTよりも大幅に拡大された 141。GATTが主として物品貿易(特に工業製品)を扱っていたのに対し、WTOはサービス貿易に関する一般協定(GATS)、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS)、貿易関連投資措置に関する協定(TRIMs)などを包含し、より包括的な国際通商ルールを管轄するようになった 128。
第三に、紛争解決メカニズムが大幅に強化された 131。GATT時代のコンセンサス方式(紛争当事国を含む全加盟国の一致が必要)では、敗訴国が報告書の採択を拒否することが可能であったが、WTOでは、全加盟国が一致して反対しない限り、パネル(小委員会)や上級委員会の報告書が自動的に採択される「ネガティブ・コンセンサス(逆コンセンサス)方式」が導入された 141。これにより、紛争解決手続きの実効性と予見可能性が格段に向上した。 地域主義の台頭:FTAとEPA
WTOによる多角的貿易自由化が進む一方で、1990年代以降、特定の国や地域の間で関税やその他の貿易障壁を撤廃・削減する自由貿易協定(Free Trade Agreement, FTA)や経済連携協定(Economic Partnership Agreement, EPA)が急速に増加した 161。FTAは主に関税撤廃・削減など物品・サービス貿易の自由化を目的とするのに対し、EPAはそれに加えて、投資、人の移動、知的財産権の保護、ビジネス環境整備など、より広範な分野での経済連携強化を目指す包括的な協定である 162。
これらの地域貿易協定(Regional Trade Agreement, RTA)は、WTO体制の停滞(特にドーハ・ラウンドの難航)や、より迅速かつ深いレベルでの経済統合を求める国々の意向を背景に proliferation した 129。FTA/EPAは、WTOの基本原則である最恵国待遇(MFN)の例外として、GATT第24条などの規定の下で認められている 163。
FTA/EPAには、締約国間の貿易・投資を促進し、経済効率を高めるといったメリット(貿易創出効果)が期待される一方で 161、非締約国からの輸入が締約国からの輸入に転換されることによる非効率(貿易転換効果)や、多数の協定が複雑に絡み合う「スパゲッティ・ボウル現象」、さらには多角的貿易体制を弱体化させる可能性といったデメリットも指摘されている 164。かつて多角的体制を重視していた日本も、2002年のシンガポールとのEPA締結を皮切りに、積極的にFTA/EPA戦略を推進するようになった 129。
現代の貿易救済措置
WTO協定は、自由貿易の原則を掲げる一方で、特定の状況下で国内産業を保護するための「貿易救済措置」を認めている。これらは、不公正な貿易慣行や輸入急増による損害に対処するための例外的な措置である。
アンチダンピング(AD)措置: ある産品が、輸出国での国内販売価格や生産コストよりも低い価格(「ダンピング価格」)で輸出され、その結果、輸入国の国内産業が実質的な損害(material injury)を受けている場合に、その価格差(ダンピング・マージン)を相殺するための追加関税(アンチダンピング関税)を課すことができる措置 167。WTOアンチダンピング協定(GATT第6条の実施に関する協定)によって規律されている 169。
補助金相殺関税(Countervailing Duty, CVD): 外国政府から補助金を受けて生産・輸出された産品の輸入により、輸入国の国内産業が損害を受けている場合に、その補助金の効果を相殺するための追加関税(相殺関税)を課すことができる措置 169。WTO補助金及び相殺措置に関する協定(SCM協定)によって規律されている。
セーフガード(SG)措置: 特定の産品の輸入が予見されなかった事情により急増し、その結果、輸入国の国内産業が深刻な損害(serious injury)を受けるか、その恐れがある場合に、一時的に輸入制限(関税引き上げや数量制限)を行うことができる措置 167。ダンピングや補助金のような「不公正な」貿易である必要はなく、公正な貿易の結果としての輸入急増も対象となる。WTOセーフガード協定(GATT第19条の実施に関する協定)によって規律されている 167。
これらの措置は、国内産業保護のための正当な手段として認められているが、発動要件(損害の程度や因果関係の立証など)や手続き、措置の内容・期間などが厳格に定められている 167。特にセーフガードは、アンチダンピングや相殺関税よりも発動要件が厳しく、原則として全ての輸出国に対して無差別に適用され、措置期間も限定されている 167。これらの貿易救済措置が、保護主義的な意図で濫用されることへの懸念も常に存在している 167。
ネオ・プロテクショニズム(新保護主義):要因と現れ
21世紀に入り、特に2008年の世界金融危機以降、そして近年の新型コロナウイルス感染症のパンデミックを経て、保護主義的な傾向が再び強まっている 43。この「新保護主義」あるいは「ネオ・プロテクショニズム」と呼ばれる動きは、いくつかの要因によって推進されている。
経済的要因: グローバル化の進展に伴う国内の雇用喪失や所得格差の拡大に対する不満 178、経済危機による国内産業への打撃 179、サプライチェーンの脆弱性への認識 177。
政治的要因: 国家主義・ポピュリズムの台頭、国内の特定産業や労働者層からの政治的圧力 178。
地政学的要因: 主要国間の戦略的競争の激化(特に米中対立)、経済安全保障への関心の高まり 26。
新たな課題: 気候変動対策や公衆衛生といった非経済的な目標との連携 181。
新保護主義の現れとしては、以下のようなものが挙げられる。
関税の再活用: 特に米中貿易摩擦において、広範な品目に対して高関税が課された 177。
非関税障壁(NTBs)の重視: 関税率が全体的に低下したため、技術基準、衛生植物検疫(SPS)措置、許認可、政府調達における国内企業優遇、補助金といった非関税障壁が、より重要な保護主義的手段となっている 38。
輸出規制・投資規制: 安全保障上の理由などから、特定の技術や製品の輸出、あるいは対内・対外投資に対する規制が強化されている。
資源ナショナリズム: 自国の天然資源に対する管理を強化し、輸出制限などを行う動き 181。
「公正な貿易」や「互恵性」の強調: 自由貿易そのものよりも、貿易相手国との条件の公平性や相互主義を重視する主張が強まっている 17。
ケーススタディ:米中貿易摩擦
現代の保護主義的傾向を最も象徴するのが、2018年頃から激化した米中貿易摩擦である。アメリカ(トランプ前政権下で始まり、バイデン政権下でも一部継続・修正され、トランプ現政権下で再激化)は、中国による知的財産権侵害、技術移転の強要、産業補助金、巨額の対米貿易黒字などを問題視し、中国からの輸入品に対して段階的に追加関税を発動した 177。これに対し、中国もアメリカからの輸入品(特に農産品や自動車など)に報復関税を課し、関税の応酬がエスカレートした 180。
この貿易摩擦は、世界経済に多大な影響を与えている。
貿易フローの変化: 米中二国間の貿易は抑制されたが、関税対象品目の貿易が他の国・地域(例えばベトナムやメキシコ)に迂回・シフトする「貿易転換」効果が顕著に見られた 177。世界全体の貿易量が必ずしも減少したわけではないが、貿易パターンが変化した。
サプライチェーンの再編: 高関税リスクを回避するため、企業が生産拠点や調達先を中国から他の国へ移転・分散させる動きが加速した 4。
コスト上昇とインフレ圧力: 関税は輸入業者や、輸入品を部品として使う国内メーカーのコストを増加させ、最終的には消費者物価の上昇につながる可能性がある 4。
市場の不確実性増大: 関税措置の予測不可能性は、企業の投資計画や世界の金融市場に不確実性をもたらし、経済活動を抑制する要因となった 181。
地政学的緊張の高まり: 貿易摩擦は、米中間の経済的対立にとどまらず、技術覇権や安全保障を巡る地政学的な緊張を高める一因となっている 131。
特に注目すべきは、この摩擦において、100%を超えるような極めて高い関税率が課されたり、検討されたりした点である 186。これは、関税が単なる経済政策の手段ではなく、地政学的な対立における強力な武器として使われていることを示している。
新たなフロンティア:炭素国境調整メカニズム(CBAM)
近年、関税の新たな形態として注目されているのが、気候変動対策と貿易を結びつける炭素国境調整メカニズム(Carbon Border Adjustment Mechanism, CBAM)である 184。欧州連合(EU)が導入を進めているCBAMは、EU域外から輸入される特定の製品(当初はセメント、電力、肥料、鉄鋼、アルミニウム、水素など)に対して、その製造過程で排出された炭素(GHG)の量に応じて、EU域内の炭素価格(EU排出量取引制度=ETSに基づく価格)との差額を実質的に課金する制度である 184。
CBAMの主な目的は二つある。第一に、「カーボンリーケージ(炭素漏洩)」の防止である 184。EU域内で厳しい気候変動対策(カーボンプライシングなど)を導入すると、炭素排出コストの増加を嫌う企業が、規制の緩い域外国に生産拠点を移転したり、域内生産が域外からの輸入品に代替されたりする可能性がある。CBAMは、輸入品にも炭素コストを反映させることで、こうしたリーケージを防ごうとする。第二に、EU域内企業と域外企業との間の「競争条件の公平化(レベリング・ザ・プレイング・フィールド)」である 184。
CBAMは段階的に導入され、2023年10月から2025年末までは移行期間として、輸入業者に排出量の報告義務のみが課される 184。実際の課金(CBAM証書の購入・提出)は2026年から開始される予定である 184。輸出国で既に炭素価格が支払われている場合は、その分が控除される仕組みも導入される 184。
CBAMは、EUの野心的な気候変動目標達成に貢献し、他国にも脱炭素化を促す効果が期待される一方で、いくつかの課題や懸念も指摘されている。WTOルールとの整合性(保護主義的な措置と見なされないか)、途上国への影響(特に輸出依存度の高い国への負担増)、排出量算定の複雑さなどである 184。CBAMは、関税という伝統的な貿易政策ツールが、気候変動という現代的なグローバル課題への対応策として新たな形で活用されようとしている事例と言える。
多角的体制への挑戦
こうした地域主義の台頭、新保護主義の動き、そして新たな課題への対応の遅れは、WTOを中心とする多角的貿易体制に深刻な挑戦を突きつけている。2001年に開始されたWTOの現行ラウンドである「ドーハ開発アジェンダ(DDA)」は、先進国と途上国の間の利害対立(特に農業補助金や市場アクセス問題)から交渉が長期にわたり停滞し、包括的な合意に至っていない 140。さらに、WTOの紛争解決メカニズムの要である上級委員会が、アメリカの委員選任拒否により2019年末から機能不全に陥っている。
WTOが、国家資本主義、デジタル貿易、環境問題、サプライチェーンの強靭化といった現代的な貿易課題に効果的に対応し、多角的自由貿易体制の信頼性を回復できるかどうかが問われている 131。
現代の貿易環境は、かつてのGATT時代のような多国間での自由化一辺倒の動きとは異なり、多角的体制(WTO)、地域的枠組み(FTA/EPA)、そして各国による一方的措置(保護主義、貿易救済、CBAMなど)が複雑に絡み合い、相互に影響しあう、より断片的で予測困難な状況となっている。関税は、その平均水準こそ歴史的に低くなったものの、特定の分野や二国間関係においては依然として強力な政策手段であり、地政学的な対立や新たなグローバル課題と結びつきながら、その姿を変容させ続けているのである。
結論:関税の不変の妥当性
歴史的総括:問題、解決策、そして発展(ユーザー質問項目8への回答)
関税の歴史を俯瞰すると、その存在は常に特定の時代における国家や経済が直面した問題への対応策として現れ、発展してきたことがわかる。
問題としての財政需要: 古代から近代初期にかけて、安定した税収基盤を持たない国家にとって、政府活動や戦争の資金調達は喫緊の課題であった。これに対する解決策として、交易活動から通行料や市場税、そして国境関税が徴収された 11。関税は、徴収が比較的容易であり、重要な国家収入源となった。
問題としての国内産業の脆弱性: 外国からの安価な製品や強力な競合相手の存在は、国内の未熟な産業や特定の産業部門にとって脅威であった。これに対し、重商主義時代から現代に至るまで、保護関税が解決策として用いられてきた 10。輸入品の価格を引き上げることで国内産業の競争条件を改善し、その育成と発展を図った。特に後発工業国にとっては、先進国に追いつくための戦略的な手段と見なされた。
問題としての国際競争と国家権力: 重商主義時代には、国家間の富と権力を巡る競争が激化した。貿易黒字の確保と貴金属の蓄積が国力増強に不可欠と考えられ、関税は輸出促進・輸入抑制のための戦略的な道具として、また経済的な勢力圏を確立するための手段として用いられた 4。関税は経済戦争の武器であり、外交交渉のカードでもあった。
問題としての経済危機と失業: 経済不況期には、国内産業の保護と雇用確保への圧力が高まる。これに対し、しばしば関税引き上げが解決策として選択されたが、19世紀後半の「長い不況」や1930年代の世界恐慌の経験が示すように、各国による保護主義的な関税政策は報復合戦を招き、貿易を縮小させ、結果的に危機を深化させるという逆効果をもたらすことが多かった 24。
問題としての経済格差と国内政治: 貿易自由化は国全体としては利益をもたらすとしても、国内の特定の産業や地域、労働者層にとっては打撃となる場合がある。こうした国内の利害対立や格差問題に対し、関税は特定の集団を保護するための政治的な対応策として用いられてきた(例:イギリスの穀物法、現代の保護主義) 61。
これらの問題に対する解決策としての関税は、その制度化、国際的な協調と対立の歴史を通じて発展してきた。当初は個別の都市や領主による徴収が主であったが、近代国家の成立とともに、関税は国家による統一的な制度として整備された。重商主義時代には国家戦略の中核に据えられ、19世紀には自由貿易か保護貿易かを巡るイデオロギー対立の焦点となった。20世紀の二度の世界大戦と世界恐慌を経て、関税戦争の弊害への反省から、GATT/WTOという多角的な国際協調の枠組みが構築され、関税の段階的な引き下げとルールの整備が進められた。しかし、現代においても、地域協定の増加や新たな保護主義の台頭、気候変動のような非伝統的な課題との関連など、関税を取り巻く状況は常に変化し、新たな問題と解決策の模索が続いている。
自由化と保護主義のサイクル
関税の歴史は、貿易自由化を志向する動きと、保護主義的な政策への回帰という、二つの潮流が繰り返されるサイクルとして捉えることができる。重商主義による厳格な管理の後、19世紀にはイギリス主導で自由貿易が拡大したが、19世紀末の不況で保護主義が再燃した。戦間期の破滅的な保護主義を経て、戦後はGATT/WTOの下で多角的な自由化が進展したが、21世紀に入り、再び保護主義的な圧力が世界的に高まっている。
現在の保護主義の高まりが、戦後の自由貿易体制からの根本的な転換を示すのか、あるいは歴史的なサイクルの一局面に過ぎないのかは、今後の展開を見守る必要がある。しかし、グローバル化の進展、地政学的状況の変化、気候変動といった新たな要因が絡み合う中で、現代の保護主義は過去のそれとは異なる様相を呈している可能性もある。
歴史からの教訓
関税の長い歴史は、現代の貿易政策を考える上で多くの教訓を与えてくれる。
第一に、関税は強力な政策手段であるが、その効果は両刃の剣である。特定の状況下で国内産業を保護し、財政収入を確保し、あるいは外交目標を達成するために有効な場合もある。しかし、その適用はしばしば意図せぬ結果を招く。報復関税の応酬は貿易戦争へと発展し、世界経済全体を収縮させるリスクを常に孕んでいる 24。また、保護された産業が非効率なまま存続し、イノベーションを阻害したり、消費者の選択肢を狭め、価格上昇を通じて生活水準を低下させたりする可能性も高い 24。
第二に、関税政策は国内の政治経済的な力学と密接に結びついている。特定の産業団体や利益集団からの圧力、あるいは国民感情やイデオロギーが、経済合理性とは別に、保護主義的な政策選択を促すことがある 24。貿易政策の決定過程における透明性と、幅広い利害関係者の声の反映が重要となる。
第三に、国際協調とルールに基づく貿易体制の重要性である。戦間期の経験が示すように、各国が一方的に関税障壁を築き、国際協調を怠れば、世界経済は容易に混乱と対立に陥る。GATT/WTO体制は、その不完全さや現代的な課題への対応の遅れが指摘されつつも、貿易紛争を管理し、予測可能性を高め、自由貿易の利益を維持するための重要な枠組みであり続けてきた 71。この多角的体制の維持・強化は、依然として国際社会にとって重要な課題である。
関税は、その形を変えながらも、国家が経済的・政治的な目標を追求するための基本的な手段の一つとして、今後も存在し続けるであろう。その歴史を理解することは、現代そして未来の国際経済関係を読み解き、より安定し繁栄した世界を築くための政策を構想する上で、不可欠な視座を提供する。
引用文献