花澤武夫の厚生年金保険制度回顧録
「労働者の皆さんが軍需生産に励んでこの戦争を勝ち抜けば、老後の生活が年金で保証されるだけでなく、いろんな福利厚生施設によって老後の楽しみを満たすことができる。年金の積立金の一部で1万トン級の豪華客船を数隻つくり、南方共栄圏を訪問して壮大な海の旅を満喫いたしましょう」
翌日の朝刊各紙は社会面に5段ぶち抜きで報じ、労働者年金は“夢の年金”を求める国民の声を背景に昭和17年(1942年)に創設。2年後に厚生年金と名称を変えた。
冒頭の「豪華客船演説」を行なった花澤氏は初代厚生年金保険課長を務め、引退後、『厚生年金保険制度回顧録』(昭和63年刊)でこう語っている。
〈法律ができるということになった時、すぐに考えたのは、この膨大な資金の運用ですね。(中略)この資金があれば一流の銀行だってかなわない。今でもそうでしょう。何十兆円もあるから、(中略)基金とか財団とかいうものを作って、その理事長というのは、日銀の総裁ぐらいの力がある。そうすると、厚生省の連中がOBになったときの勤め口に困らない。何千人だって大丈夫だと〉
当時の厚生年金は保険料を20年支払えば55歳から受給できる積立方式で、花澤氏の計算では年金資金は60年間の総額が450億円(現在価値で350兆円)に上ると弾いていた。
〈二十年先まで大事に持っていても貨幣価値が下がってしまう。だからどんどん運用して活用したほうがいい。何しろ集まる金が雪ダルマみたいにどんどん大きくなって、将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら賦課方式にしてしまえばいいのだから、それまでの間にせっせと使ってしまえ。それで昭和十八年十一月に厚生団を作ったのです〉 厚生団は厚生年金病院や厚生年金施設を運営する財団法人だ。初代理事長は厚生省保険局長。年金制度ができたときから“天下り利権”がセットで用意されたのである。 〈この戦争で勝てばいいけれども、もし敗けて、大インフレでも起こったら、でももうその時はその時だと。外国をみても、どこの国も積立金はパーになってしまった〉(同前)
筆者もこの部分は非常に気になりまして、以前上京のおり国会図書館に足を伸ばし、関連ページを全編コピー依頼して読み通しました。
結果、上記の花澤談話はあくまで年金原資の運用の詳細を言っており、花澤氏を悪人に仕立て上げるための「引用の妙」であることが分かります。
「~回顧録」中の花澤氏の発言部分を全編読み通しますと...
貨幣価値には下落の危険があるため現金保管では制度自体が危なくなる
この論理は単体だとそうとはいいきれない。もっと前提が必要
旧憲法下での議会制度ゆえ、当時の貴族院には庶民の暮らしぶりへの理解が得られず難渋した
戦中ゆえ「産業戦士」なる冠を被せられた労働者の状況をつぶさに視察
特級官僚の天下りも新制度を納得させる材料にしたりといったエピソードの数々は、花澤氏の実直さを十分に証明しています。
人口の増加ぶりや役人の天下りの是否論などについても、時代背景が今日とはまるで違う どう違う?