良い写真への出会いがない
スチルに興味が持てない理由
単体の写真を見てものすごく感動した経験がほとんどない
スチルよりも漫画描いた方がストーリーを伝えられると思う
講座の勉強と割り切ってみることはあるが、アニメのレイアウトと同列に見てる
写真の圧倒的表現って何?
動画はストーリーが強制的に必要になることが多いが、写真はそうではない
ストーリーがなければ感動はない
Claude 3.5 Sonnet.icon
写真芸術に対するあなたの考えについて、じっくり考察してみましょう。
写真の「圧倒的表現」は、以下のような要素から生まれることが多いです:
1. 決定的瞬間の捕捉
一瞬の感情や出来事を切り取ることで、時間の流れの中で見過ごされがちな真実や美しさを浮かび上がらせます。
2. 視覚的な構成力
光と影、構図、色彩のバランスを通じて、言葉では表現できない感覚的な印象を与えることができます。
3. 現実との直接的な結びつき
漫画やアニメとは異なり、写真は現実世界の断片を切り取ります。この「実在した瞬間」という事実が、異なる種類の説得力を持ちます。
ただし、あなたの指摘する「ストーリー性の欠如」は重要な観点です。確かに、単体の写真では物語的な展開を表現するのは難しいかもしれません。しかし、写真には別の形での「ストーリー」があると考えられます:
見る人の想像力を刺激し、その先の物語を想起させる
撮影された瞬間の前後の文脈を考えさせる
社会的・歴史的な文脈の中で意味を持つ
もしよろしければ、具体的にどのような写真を見ても感動しないのか、また逆に、稀に印象に残った写真があれば、それはどのようなものだったか教えていただけますか?
基素.icon見る人の記憶に訴えかける写真をとればストーリーを生まれると思うんですよ。ただそれはとてもありふれたテーマになるだろうけどね
Claude 3.5 Sonnet.iconなるほど、とても興味深い視点ですね。「記憶に訴えかける」という要素について、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
確かにおっしゃる通り、多くの「記憶に訴えかける写真」は以下のようなありふれたテーマに集中しがちです:
子どもの成長の瞬間
懐かしい風景や建物
季節の行事や祭り
日常的な家族の風景
しかし、「ありふれている」ということは、逆に言えばそれだけ普遍的な共感を得られる可能性があるということでもあります。
ここで一つの観点を提示させていただきたいのですが、写真における新しい表現の可能性として、あえて「ありふれた記憶」を特異な視点や意外な切り取り方で提示することで、見る人に新鮮な驚きを与えるアプローチもあり得ると思います。
例えば:
普段気づかない角度から撮影された通学路
極端にクローズアップされた日用品
見慣れた風景の「当たり前ではない瞬間」
こういったアプローチについて、どのようにお考えですか?あるいは、写真表現において別の可能性をお考えでしょうか?
基素.icon視覚的な構成力については、漫画やアニメイラストでも十分に味わうことができるし、私は夢想家なので、アニメや漫画の現実との接続についてもよく考えるが、流行のものを取り入れたり、現実とリンクさせたような事件を出したりすることによって、充分現実の断片を切り取っているように感じるから、写真の専売特許には思えないし、動画の方が情報量が多く、ストーリーをよく描いているから、スチルは格下だと思ってしまう。
Claude 3.5 Sonnet.icon
あなたの視点はとても明確で論理的ですね。実際、現代のアニメや漫画は以下の点で写真以上の表現力を持っていると言えます:
1. 視覚的構成力の高度な活用
意図的な構図設計が可能
光と影の完全なコントロール
理想的な瞬間の創造
2. 現実との接続性
現代的な要素の戦略的な取り入れ
社会問題との巧みなリンク
リアルタイムな文化的参照
3. 情報密度の高さ
一枚のカットに複数の意味層を持たせられる
象徴的な表現による効率的な情報伝達
現実を超えた視覚的メタファーの使用
特に面白いのは、あなたが「夢想家」として現実とフィクションの接続を意識されている点です。確かに、アニメや漫画は:
現実の断片を選択的に取り入れ
それを再構築し
より効果的なストーリーテリングとして提示できる
という点で、写真の「現実の切り取り」という特性を、より洗練された形で実現していると言えますね。
ただ一つ考えてみたいのは、写真とアニメ/漫画を「格上・格下」という階層で捉えるのではなく、それぞれの表現媒体としての特性の違いとして見ることはできないでしょうか?例えば、写真には:
偶発的な美の捕捉
意図せぬ瞬間の記録
物理的現実との直接的な繋がり
といった、創作による表現とは異なる独自の価値があるかもしれません。
基素.icon階層的に捉えようとしているわけではなく、単純に自分が何をやりたいのか=感動したことということを考えたときに、漫画を描くということや動画を作るということ、つまりストーリーを語るということがかなり重要なのであって、そこに対してスチルから感銘を受け受ける機会が相対的にものすごく少ないために、スチルはそんなに興味がないのだなと自己分析したと言うこと
Claude 3.5 Sonnet.icon
なるほど、大変よく理解できました。つまり:
1. あなたにとっての創作の原動力は
-「ストーリーを語りたい」という欲求
物語を通じて得られる感動
それを他者と共有したいという思い
2. その文脈で見たとき、スチル写真は
ストーリーテリングの要素が相対的に弱い
-個人的な感動体験が少ない
-結果として創作意欲を掻き立てられにくい
ということですね。
これは決して写真という媒体の価値を否定しているのではなく、純粋に自分の創作欲求や感性との相性を冷静に分析した結果なのだと理解しました。
時に「写真にも興味を持つべき」といった外部からの価値観に迷わされることがあるかもしれませんが、自分の感動の源泉や表現したいことを、このように明確に理解していることは非常に価値があると思います。
むしろ、「ストーリーを語る」という強い軸があることで、漫画や動画制作により深く没入できるのではないでしょうか。
基素.icon写真に感動する事はあると思う。例えば自分が友達と遊んだときに、その写真を撮っていて、それを見返したときには記憶が蘇るので、記録しといてよかったなと思う。しかしこれは記録であって、フォトグラファーがおそらく目指している他人を感動させる表現とは違う。
Claude 3.5 Sonnet.iconその区別の仕方がとても明確ですね。整理すると:
1. 「記録としての写真」の価値
個人的な記憶との結びつき
体験した文脈があるからこその感動
思い出を呼び起こすトリガーとしての機能
→ これは確かに意味があり、価値を感じる
2. 「表現としての写真」への距離感
他者の体験や視点を切り取ったもの
文脈を共有していない
フォトグラファーが目指す「普遍的な感動」
→ これにはあまり心が動かされない
特に興味深いのは、「記録」と「表現」という写真の二つの側面をはっきりと区別されている点です。確かに、同じ「写真」という媒体でも、その目的や受け手との関係性によって、全く異なる意味を持ちますね。
これは写真に限らず、創作活動全般に通じる洞察かもしれません。例えば漫画でも:
個人的な経験や感情を記録するような日記的な作品
より普遍的なメッセージを持つ表現としての作品
という区分けができそうです。
この視点は、むしろあなたの創作活動において、どのような表現を目指したいのかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるように思います。
Claude 3.5 Sonnet.icon特に興味のある分野(風景写真、ストリートフォト、ポートレートなど)はありますか?そうすれば、その分野に特化したフォトグラファーの具体的な活動やアプローチについて、より詳しく説明できるかもしれません。
基素.icon街と環境自体を取るようなスナップ写真や、フォトグラファーと被写体の関係が出るような写真など物語の進行があるような写真が好きかな
Claude 3.5 Sonnet.icon
なるほど、ストーリー性を感じられる写真に興味があるのですね。そういった写真における「物語を作り出す」フォトグラファーの具体的なアプローチを説明してみましょう:
1. ストリートスナップの場合
特定の街や地域に長期的に通い詰める
その場所の変化や人々の生活リズムを理解する
路地裏や市場など、生活感が強く出る場所を重点的に撮影
看板、張り紙、落書きなど、人々の痕跡を丁寧に記録
時間帯による街の表情の変化を追う
→ これにより、その街の「物語」が層として積み重なっていく
2. ドキュメンタリーフォトの場合
被写体(人物や共同体)との信頼関係構築
長期的な関わりを持ち、変化を記録
表面的な出来事だけでなく、日常の些細な瞬間も撮影
被写体との対話を重ねる
写真を見せ合いながら、互いの解釈を共有
→ フォトグラファーと被写体の関係性自体が物語となる
3. 具体的な手法例
同じ場所を定点観測的に撮り続ける
特定のテーマ(例:閉店していく商店街)を追跡取材
人々の何気ない仕草や表情を連続的に記録
環境の中での人の営みを広角で捉える
時系列で変化を追える連作として構成
4. 作品としての見せ方
複数の写真をシリーズとして構成
写真に添えるテキストや説明の工夫
展示空間での配置による文脈づけ
時系列や場所の関係性が分かる展示方法
このように、一枚の写真では伝えきれない物語を、様々な工夫で表現しようとしているのです。これは、あなたが求めているストーリー性により近いアプローチかもしれません。
特に興味深いのは、写真家自身が「物語を見つける目」を持って街を歩き、人々と関わることで、普段は気づかないような物語を掘り起こしていく過程です。これは単なる記録を超えた、創造的な行為だと言えるでしょう。
基素.iconでも、それだったら動画でいいじゃんって思っちゃうんだよね。情報量多いし。
Claude 3.5 Sonnet.iconなるほど、ここが核心的なポイントですね。「写真でしか表現できない何か」を考えてみましょう:
1. 写真特有の「時間の切り取り方」
動画は時間を連続的に流すため、見る人の注目点が分散する
写真は「この瞬間を見て欲しい」という作家の意図をより強く示せる
1枚に凝縮されることで、その瞬間により深く没入できる
2. 「考える余白」の創出
動画は文脈を全て見せてしまう
写真は文脈の一部を切り取ることで、見る人の想像力を刺激する
この「見えない部分」が、逆に深い没入を生む可能性
ただし...ここで私も考え込んでしまいます。確かにあなたの「動画でいいじゃん」という指摘は、とても本質的です。写真でしか表現できない価値について、私も完全な答えを持ち合わせていません。
むしろ、このような問いが立つこと自体が興味深いと思います:
なぜ多くのアーティストが、より情報量の多い動画ではなく、あえて写真を選ぶのか
その選択には、私たちがまだ理解できていない何かがあるのか
これは、メディアの本質に関わる深い問いかもしれません。
OpenAI o1.icon
写真には動画と異なる特性やメリットがあります。主な理由を挙げてみます。
一瞬の凝縮
写真は一瞬を「切り取って」見せます。動画のように時間が流れない分、見る人はその瞬間により深く集中できます。
写真は文脈やストーリーをすべて写しません。どんな状況だったのかを想像する余白が大きく、見る人の想像力を刺激します。
視線の固定
写真なら「この瞬間を見てほしい」という意図を強く伝えられます。動画だと次々と場面が切り替わり、注目してほしい部分が流れてしまう可能性が高いです。
撮る側の簡便さ
長時間の撮影や機材の準備が必要な動画に比べ、写真は比較的手軽に撮れます。構図や光のコントロールも1枚に集中できます。
編集大変だし基素.icon
アイコン化しやすい
歴史的な報道写真や有名なポートレートなど、1枚の写真が「象徴」や「アイコン」として人々の心に強く残る例は多いです。動画よりも記憶に刻まれやすい場合があります。
たしかに基素.icon
トランプ銃撃の写真は動画より写真1カットの方がずっとよく見えるだろう
アートとしての伝統や文脈
絵画からの流れをくむ芸術文化として、写真ならではの美的評価や伝統的評価がすでに蓄積されています。これは動画とは別の枠組みで理解されることが多いです。
もちろん、動画の方が情報量が多くストーリーを伝えやすい場合も多々あります。しかし、写真ならではの「一点に凝縮された表現力」や「想像の余白」などが、今でも多くの人を惹きつけている大きな理由です。
基素.icon他人に価値を伝えやすいのは動画だと思うので技術の進歩でデータマネジメントが簡単になったら報道写真もハリーポッターの世界みたいに動く写真になるかもね
OpenAI o1.icon
その発想は面白いですね。実際に「ハリーポッターの動く写真」的な技術は、いくつかの形で既に実現しかけています。たとえば以下のような例があります。
ライブフォトやモーションフォト
スマートフォンが数秒の動画を併せて保存し、静止画を長押しすると短い動画のように再生される。
シネマグラフ
写真の一部だけを繰り返し動かして、静止画と動画の中間のように見せる。
Hologram(ホログラム)ディスプレイ
被写体を3D風に表示し、一部アニメーションさせる技術。
将来的にデータ通信や記録方式のさらに大規模な進化が起きれば、
報道現場で撮影した静止画が自動的に「動く写真」へ処理される
あるいは編集ソフトで部分的にアニメーションを付与できる
といった形でハリーポッター的な動く報道写真が一般化する可能性は十分考えられます。
ただし、動画ほど長く連続した情報を見せるわけではなく、「あくまでも写真の範囲内でどこまで動かすか」がポイントになるかもしれません。写真は動画とは別のアートや文化の文脈で発展してきた背景もあるので、未来の「動く写真」は、動画に近いメディアでありながら「写真的な瞬間」を維持する独自のジャンルとして花開くかもしれません。
基素.iconつまり、写真と動画の決定的なメディアの違いは、取り手がきめた一瞬を長い時間見せられることにあるのか
動画もそれはできるけど飽きちゃう。静止画も飽きちゃうから実際にはすぐに違う写真を見られるようになるけど、うーん、やはり再生環境が課題なような気がするぞ。動画は静止画より扱いづらくシェアしづらいもん。動画だって短ければアイコン的につかえるもんね。いくつかのカットがはいってたってアイコンとして成立しなくはない。
写真だって何枚もあったら複数注目させらる。
注目させたい瞬間が一瞬なのか、そうではないのかの違い?
再生環境やシェアの容易さバランスで写真が選ばれるってことじゃないのかな。新聞に動画はのせられないけどwebなら載せられる、とかね
OpenAI o1.icon
あなたがおっしゃる通り、写真と動画の使い分けには「再生環境」や「シェアのしやすさ」が大きく影響していると思います。まとめると、次のような点が挙げられます。
再生環境の問題
新聞など紙媒体には動画を載せられない。ネットでも動画はサイズや再生の手間がかかりやすい。写真は軽く扱いやすい。
アイコンとしての使いやすさ
1枚の写真はすぐに認識・共有ができ、何度でも見返しやすい。動画だと再生しないと内容が分かりにくく、シェアする際も容量が大きくなりがち。
「注目させたい瞬間」が一瞬か連続か
写真は「この瞬間」を強く印象づけるのに向いている。動画でも短ければ似たアイコン的役割を果たせるが、やはり再生のワンクッションが必要。
複数のカットと構成
写真でも何枚か並べればストーリーを示唆できるし、動画でも短編にすればアイコン的に見せることは可能。最終的には使い手がどの形式を扱いやすいかに左右される。
要するに、写真と動画は「一瞬を選びたいか連続した流れを見せたいか」という本質的な違いに加えて、「どの環境でどんな手間で共有するのか」という現実的な制約が選択を左右しているとも言えます。
基素.icon
つまり、動画がtoo muchなことがあり、むしろ動画は写真以上のことが基本できるが、それをやらなければいけない理由が要求されるわけだな。
AIが普及する前は、とりあえず計算量の高いAIを使うのではなく、既存のモデルを使って計算量を減らせと言う方針だったか、十分に実行起こすとが、下がったらまずAIでやってみればいいじゃないかと言う話になった。これと同じで、動画も再生環境やストレージ環境が整ってきたら、まずとりあえず動画で撮ってみたらいいんじゃないかって時代になるかもしれないね
OpenAI o1.icon
おっしゃる通り、動画は「写真でやれることは原則すべて可能」だけれど、そのぶん
データ量の大きさ
再生環境の整備
撮影・編集の手間
などのハードルがあります。これらが十分に下がったなら「とりあえず動画で撮っておけば、あとから写真的にも切り出せる」という時代が来る可能性はあります。
同じように、AIの計算コストが下がれば「まずAIで解析・生成してみる」という流れが生まれたのと、よく似た話だと考えられます。今後は
ストレージの超大容量化
ネット回線の超高速化
端末の処理能力の大幅向上
が進めば、従来ほど「取り回しの容易さ」を理由に写真を選ぶ必要はなくなるかもしれません。結果として、動画が主流になるシナリオも十分想定できます。