春画
春画が初めて公権力によって禁圧されたのは、上述のように亨保7年で
庶民生活では必ずしも不快・嫌悪をもよおすようなものとして扱われていたわけではありませんでした。
...たとえば嫁入りの贈答品として扱われたり、新年のお祝い物として配られたり...
明治元年(1868年)になって作られた検閲制度は、事前に官の許可を得ずして行った出版は、吟味のうえ、版木・製本も没収し、著者・発行元・書店を処罰するというたいへん厳しいものでした(太政官布告)。 明治2年に、出版条例(その後、出版法に改正)が布告され、「淫蕩」(いんとう=みだらな享楽)を導くものの販売に罰金が科され、利益も没収されます。
明治5年には、(東京)違式かい違条例(いしきかいいじょうれい)が布告され、その第9条で「春画及び其類の諸器物(どうぐ)を販売する」ことが規制されます。 違式かい違条例とは、現在の軽犯罪法の元になった法令で、地方の実情に合わせてその後に全国で制定されていきます。
明治6年には「淫風(いんぷう)を誘導すること」を罰する新聞紙条目(第13条)(その後、新聞紙法に改正)が制定されます。
終戦後の1949年に廃止
「安寧(あんねい)秩序を妨害し、又は風俗を壊乱(かいらん)する文書図画」の出版や新聞への掲載が禁止され、「5円以上50円以下の罰金」(出版法22条)や「6月以下の禁錮又は200円以下の罰金」(新聞紙法41条)が科されたのでした(ちなみに、明治24年に起こった大津事件の犯人津田三蔵巡査の月給が9円でした)。
刑法典における禁止規定としては、明治13年制定の旧刑法が、「風俗を害する罪」として第259条に「風俗ヲ害スル冊子図書その他猥褻の物品を公然陳列し又は販売したる者は4円以上40円以下の罰金に処す」との規定を置いており、〈猥褻〉という文字が国法に登場します。
刑法典の形で猥褻物に関する規制を行った最初の法律は,旧259条である9).そして,この規定は,現行法の解釈論にも少なからず影響を与えている
明治初期の日本は,列強と不平等条約を締結しており,その改正交渉のために,近代法を整備することが喫緊の課題でした。
その中でフランスの法学者ボアソナードが第一案を出している
これ以上突っ込んだ議論は旧刑法を当たる必要があり、つらい基素.icon 旧刑法がボアソナードの指導のもとに編纂されたのに対し、現行刑法はとくにドイツの刑法や近代学派の刑法理論の影響を受けて編纂されたとされる。ここでは、法理論上で断絶が生じたかのようである。しかし、現在の刑法用語の大部分は、この時代にフランス語からの翻訳として作り出されたものであるばかりでなく、実質的に現行刑法に残った旧刑法の条文も多い。法理論面でも、旧刑法の時代に培われた刑法理論は、とりわけ実務の中に生きつづけ、現在にまで影響を及ぼしている。
これが175条に引き継がれる
明治40年の現行刑法典第175条「猥褻な文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、500円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。」
戦後に出版法や新聞紙法の廃止にともなって、刑法175条の法定刑に懲役刑が追加され、罰金の額も引き上げられました... 刑法典と春画の関係ですが、すでに旧刑法制定の頃には春画が〈わいせつ〉であることは当然のこととされ、自ら出版した者については出版法で処罰し、出版者以外の者については刑法を適用するというのが裁判所の考え方でした(大審院明治37年6月10日判決)。
以上のような春画に対する規制の裏には、西洋文化、とくに西洋美術の継受という現象があります。
それまで日本になかった〈美術〉という言葉が作られたのは明治6年のウィーン万博の時だとされています。ただ、 その概念内容が定まらない中で、国の主導で美術工芸品の輸出に関する団体〈龍池会〉(後の日本美術協会)が組織され、
そこで春画は美術の範疇から除外されていきます。
これは、春画を美術から除外することによって、西洋絵画の主要なテーマのひとつである〈裸体〉から〈わいせつ〉の要素を取り除くことが目的でした。
基素.icon?
つまり、〈裸体画〉に芸術的価値を付与するために春画の〈わいせつ〉性が強調され、春画はいわば西洋美術を正常な規格とするための生贄(いけにえ)にされていったのではないかと思われるのです。
基素.icon春画はわいせつだけど裸体はわいせつじゃないよね。春画を除外すればいいよねという理屈?わけがわからない
春画は〈美〉の規格から外れる卑しいものとされ、結果的に膨大な数の春画がヨーロッパに流出しています。
おおむね明治30年代頃には明確に春画を〈わいせつ〉とする認識が広まった