日本共産党が所感派と国際派に分裂(1950)
米軍主体の占領軍を解放軍と規定して平和革命を掲げた日本共産党の路線を誤りと指摘した
1950年1月6日、機関紙『恒久平和のために、人民民主主義のために!』に発表した「日本の情勢について」で
ソ連がコミンフォルム加盟政党への統制を強めるにつれて
この統制の強まりはレーニン死後スターリン時代の一国社会主義論に基づいてるんじゃないかなあ基素.icon この「批判」は、当時の徳田球一書記長ではなく、政治局員だった野坂参三だけを名指しで問題にしたものでした。これは、ソ連の情報機関につながる秘密工作者となっていた野坂に、新方針を伝えるためのメッセージだったとみられます マッカーサーは、1949年11月末になっても、日本はいかなる軍事力も持つ必要はない、と断言していたが、突然、1950年元日、憲法第9条の新解釈を提唱した。
日本は、アジアで猛威を揮っている危険極まりない共産主義の侵蝕に自衛力で対決しなければならない、と彼は言った。
このマッカーサー発言の直後、1月6日、コミンフォルム(モスクワに本部を持つ世界共産党本部)は、日本で最も有名な共産主義者である野坂参三の「平和革命論」を「帝国主義を美化するもの」と厳しい批判をした。
この干渉のため日本共産党は所感派や国際派などに内部分裂し、更にその後、党の武装方針を定めた51年綱領が打ち出された
所感派(主流派):一見方針が親米的に見えるだけだよ派 コミンフォルムへの反論「政治局所感」主張した
日本共産党が1950年(昭和25年)以降に内部分裂した際の党内派閥の主流派。徳田球一・野坂参三・志田重男・伊藤律らの属した親中派。
当初は米軍解放軍規定・平和革命論に対する欧州共産党情報局の批判に反論したが、中国共産党の人民日報による批判を受け、日本国内で暴力革命・テロを推進した
どういうこと?
国際派 :コミンフォルムの批判を受け入れるべきだよ派