後藤田正晴
1914-2005
1969 警察庁長官
1972
警察庁長官辞任
1973 小選挙区制を根回しなく田中が公表し。党内反発もあり撤回、官房副長官を辞職 徳島県から参議院選挙出馬。自民党公認をめぐって党内で揉める(阿波戦争)。公認を取るも敗北
さらに、後藤田が選挙に不慣れであったこともあって、陣営から268人もが徳島県警察によって選挙違反で検挙されることとなり、「金権腐敗選挙」と強く非難される憂き目を見た。後藤田はお詫び行脚に奔走するとともに、私財を売り払って逮捕者に弁護士を手配した。後に後藤田は、「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている
1976 徳島県全県区から立候補、当選
1979 第2次大平内閣の自治大臣兼国家公安委員会委員長兼北海道開発庁長官として初入閣
当選回数僅か2回であり、年功序列で衆議院当選5回から6回が初入閣対象とされていた当時の政界にあっては、異例の出世であった
中曽根は内務省の後輩である後藤田の手腕(官僚機構の動かし方・情報収集能力)を知っていた
自衛隊の海外派遣には否定的
イラン・イラク戦争集結で自衛隊ペルシャ湾派遣には「閣議でサインしない」と反対
1987 東芝機械ココム違反事件で通産省が黙認していて公訴時効になりかけた外為法違反を圧力をかけて事件化
..後継総裁候補に名前が挙がったが、後藤田は「私は総理にならないほうがいい。第一に警察出身者。二に田中角栄に見出してもらい、三に最初の選挙のとき陣営からたくさんの選挙違反者を出している。この三つでダーティイメージになってしまった。四に中曽根に五年仕えたことで、彼の影が拭えない。五番目は糖尿病だ。私は総大将には向かないのだ
後藤田の案は後に導入された小選挙区比例代表並立制であったが、実際の案との大きな違いは、1票制であることだった。これは、小選挙区に投じた候補の政党が、そのまま比例区の政党票になるというものである。従って、野党各党が比例票を稼ぐには、共倒れを承知で小選挙区に独自候補を立てる必要があるというものだった。その性質上、野党の選挙協力を封じる効果があり、自民党に極めて有利な内容だった。加えて、比例代表区は都道府県別に分割され、県によっては比例区の意味のない定数1となるところもあり、これまた第1党の自民党に極めて有利な内容だった。 これが理想だったのか、たたき台として党内から反発が起きづらいものを出したのか?
この時は結局、小泉純一郎ら自民党内の改革慎重派など、自民党内の反改革勢力によって政治改革法案が廃案に追い込まれ、「(政治)改革に政治生命を賭ける」と明言していた海部が首相続投を断念したために実を結ばなかったが..
「昭和30(1955)年以来今日まで続いている我国の政治のシステムが固定化して内外の急激な情勢の変化に対応出来ず、政治が活力を失い、無責任の政治情況が続き、その間、国民の信を失う腐敗事件の繰り返し、このような政治の現況を打破して政権の交替、そして政治の緊張感の回復をし、議会政治の活性化をするねらいがわれわれの政治改革の目的」
「政治改革と言えば選挙制度の改革のみと理解されがちであるが、国会の活性化、党内民主化、派閥の行き過ぎ是正、政治資金の政党中心など一連の改革を一括、ワンパッケージ」 政治改革法が成立した日のメモ
「感無量、ただ、未だ三合目。政治改革の目的から見れば出発点にすぎぬ。今回の改革はただ変革の第一歩にすぎない」
平成初頭の小選挙区制導入の議論の際、最も強硬に小選挙区制に反対していたのが、他ならぬ小泉氏だった。当時のNHKのインタビューで、小泉氏はこう語っている。
「小選挙区制になるとね、組織から資金から人事からもう全て党の一部幹部に集中される訳ですよ。執行部の気に沿わないことが言えなくなる状況が生まれる恐れが出てくる。恐ろしいことですね」
「制度に絶対のものはない。運用を誤れば成果は上がらない。いや、逆効果さえ生ずるおそれがある」
「国民の皆さんの監視こそが大事だ。政治は、党のため、個々の政治家のためのものではない。国家国民のためにあるのが、政治である」
1992 宮澤改造内閣で法務大臣に就任
高齢で負荷が軽いポスト。キャリア的に法務知識があった。
ロッキード事件においては田中の公判検事であった吉永祐介を検事総長に起用するという人事を承認した 1996年 恒例で総選挙不出馬
イラク戦争の自衛隊派遣に対して小泉純一郎内閣に対して批判的な意見 右派勢力から嫌がらせを受ける
引退演説
その中で後藤田は「私には心残りがある」と語り、
政治改革を掲げつつそれが単なる選挙制度改革で終わってしまったこと、
警察官僚として部下に犠牲を強いてしまったことだという。
警察庁時代に「のべ600万人の警察官を動員した第二次安保警備で、『殺すなかれ』『極力自制にせよ』と指示した結果、こちら側に1万2000名もの死傷者を出してしまった。いまでも私は、その遺族の方々や、生涯治ることのないハンデキャップを背負った方々に対して、本当に心が重い。これが私の生涯の悔いである」と語っている
第二次世界大戦の当事者が存命の間は改正は時期尚早との認識を示しながらも「賞味期限がきているのではないか」とも述べていた。
後藤田自身は1項については保持し、2項については交戦権を認めたうえで「領域外での武力行使は行わない」と明記すべきとの考えであった。
独立・自存のための自衛権は憲法以前の自然権としていずれの国でも認められるものであり、最低限の武力装置を備えておくのは当然である 海外派兵に関するあらゆる方便を排除するために海外での武力行使禁止を明示すべきである
晩年は社会の右傾化をより憂慮していたため、意図的にこれらの見解について発言することを控えていた。
後藤田の自宅には毎日深夜に右翼から電話がかかってきていた。それを聞いた板東英二が電話番号を変えるよう進言すると、「バカ、そんなことをしたら誰が彼らの話を聞いてやるんだ」と取り合わなかった