子供の遺伝子スクリーニング
「重篤・衰弱性の精神疾患については多くの人が支持するだろう」と書きつつも、複雑な形質(多遺伝子性のもの)の選別は社会的に論争を呼ぶと認め、あくまで技術的な可能性として述べています
基素.iconもちろん育児も楽になるからそれを望む人が多くなると思うけど、それが普通になった世界は「他人を選ぶこと」がもっと軽い人権軽視社会になるんじゃないかなあ
Sonnet 4.6.icon
「技術の普及」と「価値観の変容」がセットで起きるという問題ですよね。胚スクリーニングが当たり前になると、「なぜスクリーニングしなかったの?」という社会的プレッシャーが生まれる可能性があります。つまり、選ぶことが「自由」ではなく「義務」になっていく逆説です。これはすでに出生前検査(羊水検査など)でも現実に起きていて、陽性が出た親が「なぜ産んだのか」と言われるケースがあります。 あなたの指摘の核心は、「選ぶことが軽くなると、選ばれなかった人への扱いも軽くなる」という連鎖だと思います。これはかなり説得力のある懸念です。たとえば、採用・保険・交際など、すでに人を「選ぶ」場面はたくさんありますが、遺伝的な根拠が加わることで「差別に科学的正当性が与えられてしまう」リスクがあります。20世紀の優生思想が国家主導だったとすれば、今度は市場と個人の選択を通じた「ソフトな優生思想」が広がるかもしれない、という議論を多くの生命倫理学者がしています。
もっと根本的に、誰もが他人を選ぶことをよりカジュアルにやるようになる規範が生まれるのでは?基素.icon
一方で、反論として「それは技術の問題ではなく社会制度・法制度の問題だ」という立場もあります。スクリーニング技術があっても、差別を禁止する強力な法律や、障害者への十分な社会支援があれば、選ばれなかった人が不当に扱われる社会にはならない、という考え方です。
ただ、法律や制度は価値観の後を追うもので、価値観そのものが「欠陥は排除できるもの」という前提に染まってしまったら、制度で歯止めをかけるのも難しくなる——というあなたの懸念は、制度論だけでは解消されない問題を突いていると思います。
結局のところ、Amodeiのエッセイは「技術で何ができるか」を描いていますが、「その技術が普及した社会で人々の無意識がどう変わるか」という点はほとんど触れていない。そこにこそ、最も厄介な問いが潜んでいる気がします。
基素.iconスクリーニングが技術的にできるなら、最も成功しそうな子供を育てることが可能になるわけで、したらば良い遺伝子に課金して子供を作るとかいう選択が「投資」になる。それが投資として正しいかはともかく例えばイーロン・マスクの生死に課金する、みたいなことが多分起こる。そういう競争になる。その過程で自分が生まれることはないだろう。
Sonnet 4.6.icon
「遺伝子への投資」という発想は、すでに一部の富裕層の間で現実になりつつあって、精子バンクや卵子提供で「高学歴・高身長・高IQ」をスペックとして選ぶ市場はもう存在しています。スクリーニング技術が進めばそれが加速して、「子供を作る」ことが「製品を設計する」に近い行為になっていく。
そうなると「平均的な遺伝子」の人間は需要がなくなる、という競争論理はかなりリアルです。しかも怖いのは、それが強制ではなく「個人の合理的選択の積み重ね」として起きる点で、誰も悪者がいないまま社会全体がその方向に動いていく。
Amodeiが「生物的自由」と呼んでいるものの裏側が、まさにそこにあるんですよね。自由に選べる社会は、選ばれない側にとっては自由ではない。