合理的とは何か
合理的とは何か
「合理」「合理」…裁判官はすべてをこの言葉で説明するが、しかし、人間とはそんなに合理的な存在だろうか。何が正しくて、何が正しくないか、道徳や倫理上の問題を突き詰めていくと「合理的な」論理では説明がつかないということを裁判官たちは知らないようだ。
例えば、日本でも有名な1912年の客船タイタニック号沈没事故。男性よりも子供や女性を優先して救うことに誰も疑問を抱かなかったが、その順位付けは「合理的」だったのだろうか? なぜ例えば、一番強くて賢い者が優先ではなかったのか? ただの合理から答えは導けない。タイタニック号の乗組員や乗客は、論理ではなく、何世紀にもわたって培われてきた倫理的本能に基づいて行動したのだ。
裁判だいぶ倫理じゃない?無料範囲だと指摘がわからない
札幌高裁は24条1項の目的が、明治憲法下のいわゆる家父長制、封建的家族制度を否定し、両当事者の自由かつ平等な合意を基礎にした婚姻制度を求めていることや、社会の変化をふまえると、同性カップルも「婚姻の自由」の権利主体に含まれると解釈した。
正直に言うと、私には想定外であったし、大方の憲法学者もそうなのではないか。24条1項の「婚姻の自由」の権利主体に同性愛者も組み込んだ、この札幌高裁の解釈が、学界や法曹界の支配的見解かと聞かれれば、そうではないと思う。
ただ、元最高裁判事の千葉勝美氏も、著書「同性婚と司法」(岩波新書)で同じような24条1項解釈を提案されていた。元最高裁判事の解釈だけに重みがあり、今後極めて有力な見解になるのではないか。仮に、札幌高裁と同じような解釈を採る高裁判決がもうひとつでも出れば、最高裁も無視できないだろう。
元最高裁判事の説は有力なの?
婚姻制度は原則として異性愛者のもので、同性愛者の「親密な結合」を守る法制度をいかにして婚姻制度に近づけていくか、というアプローチだった。
この点、札幌高裁は、異性愛者も同性愛者も「憲法上の婚姻概念」を共有している、と解釈した。両者の法的利益は、憲法的には「同根」であると。憲法上、同根ならば、国会が法律を作る際は、同じ婚姻制度に同性愛者も組み込まれることが前提になるはずだ。 自身は、1960~70年代のいわゆる標準世帯で育った人間だ。標準世帯への郷愁を深くする一人だが、古い家族の肖像だけ眺めていても昔に戻ることはない。日本全体の社会の活性化を考えても、もはや現状維持は合理性がなく、傍観していることはさらなる日本社会の弱体化につながる。同性婚が実現しても、誰も困る人はいないだろう。異性愛者はこれまで通り結婚できるし、同性愛者もできる。皆がハッピーになるだけだ。