二・二八事件:台湾で中国国民党の悪い統治に民衆が怒り衝突。民衆約2万人殺される
1947年2月28日
この人材の質が悪かった
当時の国共内戦の影響で(人格的にも能力的にも精鋭と呼べる人材は大陸の前線に送られており)質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が処罰されぬことがしばしばあった。
日本の統治の方がマシだった(東京と同じ水準の経済だった)ので、現地住民は不満だった
台湾の資材が中国人官僚らによって接収・横領され、上海市の国際市場で競売にかけられるに到り、物資不足に陥った台湾では、相対的に物価は高騰、インフレーションによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深刻化した
闇タバコを販売していた寡婦を官憲が摘発し、殴り倒して所持金没収をしたところ、同情した民衆が集まった
官憲の威嚇射撃が無関係ない人に被弾して死亡した
これをきっかけに民衆が中華民国の統治にキレて行政長官陳儀のいる建物に押しかけたが、衛兵は機関銃で対応した 激怒した本省人民衆は国民政府の諸施設を襲撃し、大陸人商店を焼いた。
日本語や台湾語で話しかけ、答えられない者を外省人と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。
台湾住民の中には日本語が話せないグループもいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。 台湾人による秩序維持と食糧確保のための全島処理委員会が成立...台北の同委員会は3月7日に貪官汚吏の一掃・省自治の実施・政府各機関への本省人の登用などの改革を陳儀に要求した
陳儀は、対話の姿勢を示したが、裏で蒋介石に援軍を要請 「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒(奸党乱徒)に対し、武力をもって殲滅すべし」
1992年、台湾の行政院は、事件の犠牲者数を1万8千〜2万8千人とする推計を公表している
犠牲者数については800人〜10万人まで様々な説があり、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。
3月16日蒋介石.icon「陳儀は台湾の政事を行うにあたり、みずからの欠点をわきまえず、いばりくさり、とりつくろうことを大切なことだと思っている。こんなことがあっても、なお自分の責任を認めようとしない。痛憤のあまり、深いためいきがでる」
国民党政府はその後戒厳令を38年続け、弾圧は1987年まで続いた