ルックバックの表現変更
何が起きたのか
2021年8月2日 ジャンプ編集部が修正を変更
2021/08/27 コミックス版ではさらに修正される様子
誰が何を問題視しているのか
問題視したこと
幻聴(統合失調症に特徴的な症状)をもつ人物が殺人をする描写がされたために
第三者が自分を見たときに人を殺すとみられてしまうことを増強すること
「絵から声がする」というのは、現実には有り得ないことで、それを主張する人については、精神疾患だと見なさざるを得ません。
幻聴は、シュナイダーの1級症状の一つであり、統合失調症に特徴的な症状です。
絵から声がするという「幻聴」のある人が、人を殺すシーンを描くことは、精神疾患への差別や偏見を助長するおそれがあります。
問題視したこと:精神疾患者が対話不能な凶悪犯罪者であるというステレオタイプを補強しうること 特定の精神疾患群に対して、「対話不能な凶悪犯罪者」であるというステレオタイプ的な読解を生み、補強しうる
悪魔化・患者化された記号としての加害者描写は、本作がモデル漫画であるか否かに関わらず、幻聴に関連する特定の疾病群に対する偏見を助長する可能性は気になりました。同様の指摘は、複数の精神福祉関係者が行っています。
もちろん、加害者の実相が主人公に理解可能かどうか、あるいは物語時間の中で必要な情報が取得できるかなど、物語の制約上の限界がそこにはあります。
通り魔的に無差別大量殺人を犯したと報じられた人物が、「独語のように幻聴を示唆する言葉」を呟き、「自分の作品を盗まれたという被害妄想らしき言葉」を口にしていれば、このひとは「意思疎通が不可能な狂人」であろうと推測してしまうのは、かなり自然な反応ではないだろうか。
何がステレオタイプかについて、はっきりした定義があるわけではない。印象論と言われればそうかもしれない...
精神科医という職業柄、この種の表象に過敏になっているのかもしれない
この通り魔の人物造形だけは、これまでさまざまなフィクションの中で繰り返されてきた、かなり凡庸な狂気のイメージだ。強いて言えば「統合失調症」が一番近いだろう。
断っておくが、これは「診断」ではない。診断のいかんにかかわらず、私はこのような言動をする患者に会ったことはないし、ここに臨床的なリアリティは一切ないからだ。...私はむしろ一人の漫画ファンとして、これは漫画的に誇張された精神障害者のステレオタイプだ、と判断したのである。
依存症の専門医である松本俊彦氏も指摘するように、覚せい剤依存症患者でもこのレベルの症状はきわめてまれだ。薬物依存であっても問題の本質はなんら変わらない。
本作を読んだだけで偏見が強化されるとまでは思わない。スティグマとは、常に集合的に形成される「ネガティブなステレオタイプ」のことなのだから。だからこそ、本作のような傑作がそれを強化するピースの一つになることは、なんとしても避けてほしいのだ
論点と感想
上記の全ての論点が統合失調症患者へのステレオタイプ増強への反対である
実際に自分が軽度な患者だったらそれによってイメージが増強されるということを恐るかもしれないから、これは理解できる
大枠として異論はないのだが、具体的な表現をどう変えるのかという程度に関してはかなりグラデーションが広がっていると思う。突き詰めて言えばテーマとして扱うことすらだめだということになる。それには反対である
以下は主題ではない論点である
批判された「理解不能な人型の天災的狂気」を短い紙面で書くためにはどのような仕組みが必要なのだろうか?
斎藤氏の考え方だと、そもそもそのようなキャラクターは描くなと言っているように聞こえる
現代のフィクションにおいて「人の形をした悪」を描くには、背景や動機の詳しい描写がもはや不可欠であり、まったく心を欠いた「理不尽な災厄」としては描きにくい時代になった、ということだ
自分はそういうキャラクターが必要なら描くべきだと感じるので、ここに大きな立場の違いを感じる
表現としては修正版より修正前の方が自分の記憶には残った
修正前の犯人は成功しなかった絵描きと取れるので、そこに自分を重ねて読んでいる
第一修正後の犯人はクリエイター感がほとんど消えてしまったので、共感度が低減した
修正された箇所は、「作品は作っていただろうが何者にもなれなかった」人の表現だと思った。置換後はそういうニュアンスは消失した。凡庸な狂気のステレオタイプというが、内容をパクられたという主張は京アニ事件を踏襲していると自分は読んだので、類型というより特定じゃないかな?
ステレオタイプを創作に使うこと
そんなことまでうるさく言い出したら作品なんか作れない、という意見には賛同できない。
映画に関して言えば、いまやほとんどの作品が精神障害者を含むマイノリティへの偏見描写抜きで魅力的な悪を描き、理不尽な暴力を描こうとしている。
具体的な例が知りたい
ステレオタイプがなければ、作品を演者や他の人に伝えることも難しいと思うのだが。もしできるなら仕組みで工夫されているはずで、その仕組みはなんなのだろうか?基素.icon
PC (Political Correctness 政治的正しさ)が過ぎればフィクションが貧しくなると言う説にもくみしない。
例えば野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』には、実在した犯罪者などを下敷きにしつつ、現実にはありえないほど誇張されたキャラの変態的殺人鬼が何人も登場する。いわゆる伝奇的手法(ただし狭義の)というものだ。にもかかわらず、徹底した取材とゆきとどいた配慮によって、PCには1ミリも抵触することなしに、手に汗握る変態暴力宝探しを展開し続けている。
もっと例がしりたい
ゴールデンカムイがPCに1mmを抵触しないというのは一体どの物差しを使っているのか? ゴールデンカムイが抵触しない物差しを使うならかなり抵触しない範囲で色々できるが、実際には「抵触した」扱いになるだろう
ここはもっと実例を出して慎重にに議論した方が良いポイントだ。主語がでかいから
ここは大いに反論したい基素.icon
キャラクターのバックグラウンドを丁寧にかく紙面がない掌編では明らかにステレオタイプが有用である ステレオタイプを使わないことは、短編に期待することではないと思う
もちろんやれと言われればできるが、大きな制限である
例えば、歯科医に顕微鏡なしで治療しろと言ったらできるだろうが、治療のクオリティは下がるだろう
精神科医の実務を知らないので良い例が挙げられないが、目隠しして会話だけで対応してと言われたらおそらく「できる」だろうが普段より不十分にならないだろうか?
連載誌であっても「このキャラクターはこういうキャラクター」というキャラ立ちにこの手法は相当使われている
お約束や「このキャラクターはこういうキャラクター」というフレームワークがあるから二次創作ができる 作品テーマの主題の調査不足は別の話
「ルックバックが精神障害者がテーマなのに、明らかな過誤がかなり書かれていて、スマッシュヒットして特定の人たちに負のイメージを固着し続けている」だったら、修正は理解できる。
ルックバックの表現を集英社が一部変更した件についてのコメント 斎藤環さんの本意は主観的にも正確にトレースできなかった ブログが長く、主題が複数ある
めちゃくちゃ読みづらい記事
本意とは、以下の点をわかった状態をいう
どういう背景で
どの部分を
どのような理屈で
どう修正すればいいのか
私の目絡みた犯人像修正前
前「何者にもなれなかった」俺たち
後「アーティストを底辺だと蔑んでいるが、実の所自分達の方が何もできないと気づいているが認められない人たち」「目に写るもの全てに噛み付くクレーマー(対象はなんでも良い)」
新聞の写植が適当すぎる
支持意見
ツイート主背景
創作はやっていない
精神病関連の本を読んでいる
フィクションとそうでないものの線引きは甘利したくないという立場
支持理由
テーマ表現はブレていない(とこの方は感じている)
精神医学史を追っていると、危うさがある
どういうことだろう?
編集は覚悟を持て