ポリコレはやってくる
必ずPolitically correctnessになっていく
@ogi_fuji_npo: どっちみちポリコレからは逃げられないし、ポリコレを拒絶しているように見える人も、結局は別の局面で別のポリコレ的なものに依存してるという側面があってねぇ。
なので、ポリコレ綱引で勝たなきゃいけない場面で、ポリコレなんてダメだとか叫んでたら、全負けする残酷な結末が待ってるわけで。
@ogi_fuji_npo: ポリコレ的発想の何がダメかという論理構造を俯瞰的に持ちつつ、自分のやっていることのコレクトネスとしての位置付けがあることが望ましいんじゃないかねぇ。そうでないと、基本的人権という最低限な防衛線しかない状況に自分を追い込むだけなわけで。
基素.icon別のポリコレ的なものとは何か
Claude 3.5 Sonnet.icon
「別のポリコレ的なもの」というのは、文脈によって異なる可能性がありますが、一般的には以下のようなものが考えられます。
特定の政治的イデオロギーや信念に基づく主張や行動規範。例えば、保守的な価値観を強く主張する人が、リベラルな価値観を「ポリコレ」と批判する一方で、自分の主張を絶対的なものとして扱うような場合。
宗教的な戒律や道徳観に基づく言動。特定の宗教的価値観を強要したり、それに反する言動を強く非難したりするような態度。
特定の社会的・文化的規範への同調圧力。例えば、ある集団内での慣習や価値観に従うことを強要し、それに反する言動を排除するような雰囲気。
政治的に偏った言論の規制。特定の政治的立場からの発言を制限したり、検閲したりするような動き。
これらは、一般的に「ポリコレ」と呼ばれるものとは異なる文脈で生じますが、特定の価値観や規範を絶対化し、それに反する言動を抑圧するという点では共通しています。投稿者は、このような「別のポリコレ的なもの」に無自覚に依存している人々の矛盾を指摘しているのだと考えられます。
基素.icon「基本的人権という最低限の防衛線」が意味するものは?
Claude 3.5 Sonnet.icon基本的人権という最低限の防衛線」というフレーズが意味するのは、以下のような状況を指していると考えられます。
ポリコレを巡る対立の中で、自分の立場の正当性を主張できず、言論の自由などの基本的人権を盾にするしかない状況。
自分の意見や価値観を積極的に主張するのではなく、表現の自由といった消極的な権利に依存せざるを得ない状態。
建設的な議論や説得によって自分の立場を正当化するのではなく、「表現の自由」などの法的権利を形式的に主張するだけの防衛的な姿勢。
つまり、この文脈での「基本的人権という最低限の防衛線」とは、自分の意見や立場を積極的に主張できず、言論の自由などの消極的な権利に頼らざるを得ない脆弱な状態を表現しています。
投稿者は、ポリコレを巡る議論の中で、このような受動的な立場に追い込まれることを避けるべきだと主張しているのだと解釈できます。そのためには、ポリコレ的発想の問題点を理解しつつ、自分の立場の正当性を積極的に説明できることが重要だと訴えているのでしょう。
基素.icon社会のslackが足りていない状況だと思う。モラルの丘を思い出した。モラルの丘のグレーゾーンが消えることと基本的人権という最低限の防衛戦になることは類似している
Claude 3.5 Sonnet.iconその通りですね。モラルの丘の図で、モラルと法律の間のグレーゾーンが消えていく状況と、先の投稿で言及された「基本的人権という最低限の防衛線」しか残らない状況には、共通点があります。
モラルの丘の図では、モラルの欠如によってグレーゾーンが消え、法律がモラルの領域を侵食していく様子が描かれています。つまり、本来はモラルに基づいて自主的に判断・行動すべき領域まで、法律による規制が及ぶようになるのです。
一方、「基本的人権という最低限の防衛線」という表現は、自分の意見や立場を積極的に主張できず、言論の自由などの消極的な権利に頼らざるを得ない脆弱な状態を指しています。
両者に共通するのは、本来は個人の自主的な判断や多様な価値観に委ねられるべき領域が、法律や権利といった形式的・画一的な基準に侵食されていくという点です。それによって、個人の自由や多様性が損なわれ、社会の柔軟性や寛容性が失われていくリスクがあるのです。
このような状況を避けるためには、モラルと法律、個人の権利と社会の規範の間に適切なバランスを保つことが重要だと言えます。そのバランスを維持するために、私たち一人一人が、自分の行動を律する倫理観を持ち、建設的な対話を通じて互いの価値観を理解し合うことが求められているのだと思います。
言い続けて認識を上書きできるので、自動的に内面化されていく
例:笑うのをためらう