シンギュラリティ
テクノフォビア(テクノロジー恐怖症)
メディアは不安を扇動的に切り出す。締めの言葉は必ずこれだ――「人は人間にしかできない、クリエイティブなことをして過ごせばいい、幸せを考えよう」
テクノロジーの恩恵を受けているのにテクノロジー恐怖症になるのは良くない
閉塞したシステムではなく、システムの変化を憎むテクノロジー嫌いの権力のほうが恐ろしい。民主化を阻む権力は、より歪な格差を生み出す。
テクノロジーで変化する前の考え方によって、それ以後の人類を推し量ろうとすると、テクノフォビアが起こる
真実ではなく意見の時代となった
『スマートフォンは、たった10年で我々の生活習慣を変えてしまった。人はインターネット上に第二の言論・視聴覚空間を作り、住所を持ち、デジタル空間にもう一度生まれた。この地上で、誰もが発信者であり表現者となった。 さて、ではそのシステム変化で、我々は全体としてどんな新しい金脈を掘り当てただろうか? 機械化・情報化によるコストカット
Appleはハードウェアとソフトウェアの連携でインターネットの上に帝国を完成させた アプリの売り上げの3割を持っていく
他のところはそんなに富が集まらない
人間対AIは幻想。実際は人間対人間
イ・セドルを囲碁で打ち破ったのは機械ではなく、囲碁の専門家ではないが、コンピュータ親和性の高いエンジニアリングの専門家
他のところでは機械を使うか、機械を使ったシステムに使われるかの人間対人間の戦い
テクノロジーは発展したまま戻らない
「個人の個人らしさ」や「同一性」という問題は計算機進歩によって置き換わっていく
機械 v.s. 人間という対比の先を探さなければならない
その後は機械にできないこととして感情が拠り所となった
しかし感情のメカニズムが明らかになり、機械がsimulateできるにつれてそこもまた壊れる
それゆえに、仏教でいう「空(くう)」の概念の上に自身を構築するか、もしくはそういった自身の構築自体も魔術化されたまま無頓着に生きていくかの二択しか残らないのではないだろうか。 古典的人間らしさとデジタルフューマンらしさ(計算機に親和性の高い集団)の対立
「知能化したインターネット(機械)」と「インターネットによって生まれた新たな知能(人間)」がとりなすのではないかと私は期待している
古典的人間性とデジタル人間性の衝突は、創世記にある「バベルの塔」の話のようになるのではないかと考えている。 恩恵を得られない人たちとのギャップがある
このギャップを、壁を作ったり、世界を分断したりして止めていってほしくない。ローカルの問題を再燃することによって、言葉が乱され、個別に分断されることのないことを願っている。
我々の触れうる世界を、物質とデータの如何に関わらずコンピューティングの対象にしていき、物質だかヴァーチャルだかを気に留めない時代になりつつある...