ろくでなし子裁判
解説:志田陽子 武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)
専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)
最高裁は上告棄却
一審の東京地裁判決と二審の東京高裁判決を支持
一部無罪(先に確定済み)
一部有罪(今回の上告で不服とされた部分)
二審の東京高裁判決は、一審の東京地裁判決をほぼそのまま支持している。だから、この判決の内容を理解するには一審の東京地裁2016年5月9日判決までさかのぼらなくてはならない。
作品A
都内アダルトショップで、女性器をかたどった立体造形物を展示した
作品B
3Dプリンタによって女性器をかたどった立体造形物が再現できるデータを送信し、このデータを記録したCD-Rを販売したり、頒布したりした
筆者は、有罪となった作品Bを見ることができないので、そこを論評することができない。しかし、Zoomで行われた会見でも代理人の弁護士たちが、「標本か、地形の断層、立体地図の等高線のようなものにしか見えない」と発言しており、3Dプリンタで出力した後の立体物で性欲が刺激されることは常識的に考えて難しい、と首をかしげている。
この両方が、刑法175条に問われて、起訴された。
2016年5月9日の判決で、東京地裁は、Aについては「無罪」、Bについては「有罪」(罰金40万円)との判決を示した
刑法175条「わいせつ」について、日本では、1957年の「チャタレー夫人の恋人」判決(以下、「チャタレー」判決)以来、《羞恥心を害すること、性欲をいたずらに興奮させたり刺戟したりすること、善良な性的道義観念に反すること》が「わいせつ」とされた(筆者による趣旨要約)。以後、1969年の「悪徳の栄え」事件判決、1980年の「四畳半襖の下張」事件判決といったいくつかの最高裁判決の中で、判断の枠組みが作られてきた。
これら一連の裁判で繰り返し問われてきたことを整理すると、以下のようになる。
(2)刑法175条にいうわいせつの概念は、漠然不明確であるため刑罰法規としては憲法上要求される適正性を欠いているのではないか。
(3)刑法175条は法令として合憲であるとしても、本件の表現物は、これまでの判例に照らすと、本条にいう「わいせつ」に該当しないはずではないか。
(1)の点について、最高裁判所は、1957年の「チャタレー判決」以来、「最小限度の道徳」を維持するという立法目的を正当と認めて、刑法175条を憲法違反とする可能性を認めてこなかった。
(2)の点も、裁判所は退けている。とくに今回の最高裁判決は、この点の主張を真っ向から否定しているように読める。
そして、起訴の対象となった表現が175条に該当するかどうかの判断だけが、裁判所が取り上げる争点として生き残ってきた。
この種の裁判で無罪判決が出たのは、約40年前、1982年の「愛のコリーダ」事件判決くらいのものではないだろうか。そのくらい、実際に無罪判決が出るのは稀有なことなのである。
この最高裁判決の中には、これまでの蓄積から後退しているのではないか、と思えるところがある。
作品Bの3Dデータによる造形作品について最高裁は、「結局のところ、わいせつ物の頒布自体を目的としたものとしか言えない、だからわいせつに該当するのだ」という意味のことを述べているのだが(筆者による趣旨抽出)、では、作品Aのように飾りがあれば飾りの部分に芸術性や思想性を認めることもあるが、飾りのない「そのもの」の表象に価値があるという思想は、思想として認知されない、ということになるのだろうか。
引き算をすると、芸術性・思想性を認めることができるのは飾りの部分だということになるのだが、これは美術を少しでも勉強したことのある人なら、呆れてしまう古さだろう。 裁判官が「明らかだ、明確だ」と言っているのだからそうなのだろうと思い込むことは、できないようである。むしろ、実際にその表現を見ていない人間たちがその「明らか」を鵜呑みにすることを求められているという、この思考法に、危ういものがあるのではないだろうか。
自明とか明らかというのは明らかではないということは大学で学ぶでしょう基素.icon
ある表現を刑事罰の対象とするということは、こうした「議論不可能」の状態を引き起こす。「表現の自由」の理論は本来、こうした「議論不可能」な状態を防ごうとする理論である。ところが、日本でもアメリカでも、「わいせつ」問題については、「表現の自由」の理論が使われないことが、判例の中で慣例化している。「わいせつ」裁判では、そのような規制手段が手段として必要最小限のものなのかどうか、もっと人権制約の度合いの少ない手段は考えられないのか、といったことが論じられないのである。 なぜですか、本来使うべき理論を使うべきだと言ってもいいのではないですか、と日本やアメリカの判例に精通している学者たちの集まりの中で言ってしまうと、おそらく筆者のほうが「不勉強」とみなされて失笑を受けるだろう。奇妙だが、どの角度から問題を見ようとしても、議論不能のままやんわりと視界が塞がれているような状態である。