「LLMで読む」時代の書き手の提供価値は思考の深さ
まとめ
変わる構造 — 書き手は「伝達品質」ではなく「思考品質」に集中できるようになる 消える仕事 — 読み手のための編集・構成・体裁の整備(LLMが代行可能)
残る仕事 — 書くことを通じた思考の精錬(本人にしかできない)
文章には2つのモードがある
伝達モード — 他人に向けて書く文章。最適化の目的関数は「受信者の処理コスト最小化」
エレベーターピッチと同じ理屈で、話が長いと聞いてもらえない。
思考モード — 自分のために書く文章。目的は認知空間の探索。
冗長でも長くてもいい。探索範囲を広くするほうが良い
伝達における圧縮の原則
全ての情報を伝えることは、そもそも諦める。人類史上、それが成功した試しはおそらくない。
代わりに「つまりこういうことだよね」というメンタルモデルの重心と外観を、なるべく正確に・最短で相手に持ってもらうことを目指す。
これはlossy compression——ピクセル単位の一致より全体の形が正しい方が実用的、というJPEG的な発想。
圧縮率の上限は受信者の事前知識に依存する。相手の文脈が多いほど、送るべきビット数は減る。
自己観測による裏付け
自分自身、他人の文章を読むときは適当に取捨選択している。長い文章で打率が低いと、そもそも読まなくなる。書き手としてもこの事実を前提にすべき。
LLM以後:圧縮コストの負担者が変わる
従来、伝達のための圧縮(編集・推敲・構成)は書き手の労働だった。本を書く、ブログを整える——全部、読み手の処理コストを下げるための投資。
LLMの登場により、読み手側で圧縮が可能になる。書き手は思考の生データをそのまま出し、読み手がLLMに「要するに何?」と聞けばいい。
これが意味すること:
ただし、LLMによる圧縮の質は元データの構造に依存する。思考自体がとっ散らかっていると、LLMも重心を見つけられない。
したがって、書き手に残る本質的な仕事は「読み手のための整形」から**「自分の思考の精錬」**に純化する。
書くことは思考することである
ここで注意すべきは、「整った思考」は書く前に存在するものではないということ。最初から整った思考など出てこない。思考は書き、推敲を重ねることで初めて精錬される。書くとは思考することそのものであり、両者は分離できない。
LLM以後の労働の目的が変わる「他人が読みやすい文章に仕上げる」という対外的な整形コストはLLMに委託できるが、「書いては直し、直しては考える」という思考の鍛造プロセスは本人にしかできない。
オーディエンスの顔を想像したチューニングは気にせず、理解して発表してくれるLLMにアイデアの核心が「読み手に言い負かされない形で革新をもって」伝えられるか
こんなのはダメ
AとBが独立した概念と仮定する
LLM「作者のはAです」
読み手「作者はBだと考えているのでは?」
LLM「たしかにBの要素もあります」
ないのに言い負けてる
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LLMに投げて問答をして構造化する前のメモ
他人に伝えるための文章はなるべく短くする
意思決定コストには時間コストが含まれる
話が長いと聞いてもらえない
自分が考えるための文章は思うまま長くても良い
全ての情報を伝えることを諦める
その代わり重心や外観のメンタルモデルをなるべく正しく持ってもらう