説一切有部における法の実有について
しからは何故に有部の学者は法有を主張したのであろうか。すでに経蔵の中に、有と無し、
のこつの極器説(二辺)を排斥した経があり(『雑阿合経』一二巻、大正蔵、二巻、八五
ージ下)、有部の学者は明瞭にこのことを知っていたにもかかわらず(有部の文献であっ「大助製小』が上記の経を引用している)、何故に仏説にそむいてまで法の「有」を主張したのであろうか。その理由を検討したい。
[Miyabi.icon
諸行無常はいかに主張されるか?
ところで諸行無常を主張するためには何らかの無常ならざるものを必要とする。もしも全く無常ならざるものがないならば、「無常である」という主張も成立しえないではないか。
このことは、たとえば古代ギリシアのエレア派についてもいえるし、反対派のヘーラクレイトスについてもいえる。故にゴータマ・ブッダが有・無の二つの極端説を否定したにもかかわらず、有部が「有」を主張して著しく形而上学的立場をとった理由もほぼ推察しうるものであるが、何故にとくに法の「有ること」を主張したのであろうか。 Miyabi.icon生成的な生滅の論理は、より上位のプロセスの秩序によって成り立つ
以下
「有り」の論理的構造
Miyabi.icon「あり」という概念について
元来「あり」という概念は二種に分化さるべき性質のものである。一つは「である」「なり」であり、他は「がある」である(「である」「がある」という語は説明の便宜上、和辻哲郎博士『人間の学としての倫理学』三三ページ以下から借用した。博士はさらに「続日本精神史研究』の中でも論じておられる)。
西洋の言語でははっきり分化していないが、日本語では明瞭に分かれている。中世以来の伝統的な西洋哲学の用語にあてはめれば、前者はes-sentiaであり、後者は existentiaである。おおまかにいえば、前者を扱うのは形式論理学であり、後者を扱うのは存在論または有論(Ontologie)であるといってよいであろう。
たとえば「これはAである」という場合に、「であること」essentia が可能である。と同時に「Aがある」ということがいえる。すなわちAの「があること」 existentia が可能である。一般に「であること」は「があること」に容易に推移しうる。
さらに「があること」には二種考えられる。一つは時間的空間的規定を受けているAがあるという意味のexistentia であり、他は時間的空間的規定を超越している普遍的概念としてのAである。この二種の「があること」のうち、第一のほうを取扱うのは、自然認識であり、哲学の問題外である。第二の「がある」を取扱うのは哲学であり、これを問題として「ありかた」を基礎づけようとする哲学者がたえず出する。たとえばプラトーンのイデア、中世の実念論者の普遍概念(universalia)、ボルツァーノの表象自体(Vorstellung ansich)、フッサールの本質(Wesen)などはみなこの線に沿っているものであるとみなしてさしつかえないであろう。すでにローゼンベルク、スチェルバツキー、および宇井伯寿博士らの学者が言及したように、法有の立場もこの線に沿って理解すべきではなかろうか。 「あり」の二分構造
1. 「である」(essentia)
本質・本性・属性を示す。
例:「これはAである」
2. 「がある」(existentia)
実在・存在を示す。
例:「Aがある」
**存在論(Ontology)**の領域。
西洋哲学では existentia(実存) に相当。 「がある」の二層構造
(1) 時間・空間に規定された存在
現象界の実在(自然科学の対象)。
哲学の問題外。
(2) 時間・空間を超越した普遍的存在
哲学の問題領域。
例:
プラトンのイデア
実念論の普遍概念(universalia)
ボルツァーノの表象自体(Vorstellung an sich)
フッサールの本質(Wesen)
法有(法そのものの存在)
総括
「である」は 本質(essentia)、
「がある」は 存在(existentia) に分化する。
哲学は「がある」第二層(普遍的存在)における「ありかた」の基礎づけを目指す。
では法の実在とはなんなのか?