上野修『スピノザ「神学政治論」を読む』
上野修『スピノザ「神学政治論」を読む』 ちくま学芸文庫(2014)
読書メモ
はじめに
スピノザ(1632-1677)
ポルトガル系オランダ人 ユダヤ人の家系に生まれたが1656年に破門。
ユダヤ人コミュニティーから追放される。
『神学政治論』(1670)
匿名出版にもかかわらずスピノザが書いたということは知れていて
「前代未聞の悪質かつ冒涜的な書物」として発禁処分
スピノザにおける神
「神あるいは自然」(『エチカ』)
われわれのいるこの世界がそっくり「神」であって、銀河も地球も人間も石ころも、
みなこの「神あるいは自然」の具現である。
どこまでいってもその外がない現実、それをスピノザは神だと言っている。
第1部
第1章『神学政治論』は何をめぐっているのか
オランダ共和国 p.17
17世紀のオランダ共和国は絶対王政のスペインから独立した新教国である。
レコンキスタを経てカトリックによる異端審問が激しかったスペインの支配から自由を獲得したオランダは、絶対主義の時代にあって「レへント」と呼ばれる裕福な商人階層を勢力の中心とした貿易が盛んな国、自由と寛容の新興国家だった。
さまざまな宗教・宗派、民族が共存して成立した国だったためユダヤ人も受け入れられた。
二つの派閥の緊張関係
・議会派(共和派):実利主義的理由から寛容政策を支持、ヤン・デ・ウィット(のちに兄とともに暴徒によって惨殺される)を筆頭とする商人層レヘントたち
・総督派(正統派):強権的な社会の締め付け、独立戦争時の軍事的リーダーの総督を頭に君主制を目指す、民衆の支持
デカルト主義者たちの不安 p.24
スピノザが「哲学的読者諸君」と呼びかけ、『神学政治論』を読んでほしいと思っていた共和派のリベラルな知識人、哲学の自由を主張していた「デカルト主義者」たちが『神学政治論』の攻撃に回ったのはなぜか。
神学者たちのデカルト主義者に対する告発
デカルト主義は不敬虔である。「理性は聖書に反するか否か」
デカルト主義者の反論
「神学と哲学の分離」
「聖書の真理と哲学の真理は矛盾しない」はず。
ならば合理的でない聖書の預言はどう解釈すべきか。どこで理性と信仰を分離できるのか。
→メイエル:聖書のどこまでが隠喩なのかを最終的に決定するのは哲学である。
→結局真理は哲学的真理に行き着いてしまう。神学と哲学の分離は果たせず理性の歯止めがきかずに暴走し始める。そのことにデカルト主義者たち自身が動揺する。理性に対する不安。
不敬虔という問題 p.29
『神学政治論』が何をめぐっているのか
・なんでも自由に考えさせておいていいのかという理性への不安に対して、はっきりいいのだという必要がある。
宗教の前で理性が自らの影におびえる、「不敬虔(impietas)」という問題に対して、何をもって「不敬虔」と断じることができるのか明確にしなければならない。
その根拠は哲学と神学の論争ではなく、聖書そのものに求めなければならない。
第2章 敬虔の文法
『神学政治論』の構成
第1章〜第15章 神学ブロック:
どんな事柄が敬虔/不敬虔と言われうるのか聖書の語法から明らかにする
第16章〜第20章 政治論ブロック
誰が敬虔/不敬虔の判定権を持つのか、国家の最高権力の問題として論じる
解釈の狂気 p.35
解釈タイプA
正統派神学者の超自然的解釈、反合理主義
モーセ「神は焼き尽くす火である」=神は火である
解釈タイプB
合理的解釈、急進デカルト主義者、聖書と理性の一致
モーセ「神は焼き尽くす火である」=火は何かの比喩である
スピノザの問い:
聖書は全体が真理であるという盲目的な前提がそもそも間違っているのじゃないか。
むしろ聖書は「神がどんな存在でいかなるふうに働いているか」といった思弁的な真理など全然知らないで、しかも何かを正しく語っている、そう考えるべきではないか。
真理条件から主張可能条件へ p.42
スピノザの聖書解釈の基本は、聖書が語っている「意味」を真理と混同しないことである。
語られている内容が真理かどうかはとりあえず括弧に入れて考える。
意味の復元のためには古代ヘブライ語の言語使用の法則、書き手の置かれた文化的・社会的・歴史的状況に関する実証的研究、そして語りのテーマの系統的分類、受容・編纂過程に関する資料研究、博物誌でいう「ヒストリア」(実証的な研究データ)を整備しなければならない。
こうしたヒストリアから導き出せないようなことはいっさい聖書の教えてとして認めないこと、これが聖書解釈の一般規則である。(第7章)
預言を聞いた民衆は超自然的な光にも哲学的な素養にも無縁だが、それでも預言者が何を言おうとしているのか把握できたし、それをとても大事な事柄として記憶にとめることができた。
預言は普通一般の言葉でちゃんと通じたのである。(第7章)
それまでの聖書解釈は預言者の語りだけを見て、それが「真理を言っている」ようになるよう懸命になって解釈してきた。スピノザはそうではなく、預言者たちの言っていることが聞いている人々にちゃんとコミュニケートされえたならそれは何を語っていなければならなかったかと考える。預言の真理条件ではなく、預言の主張可能性条件を問題にするのである。
預言者の語り得たこと p.48
ある発話が、これは神の言葉であると本人にも聞き手にも確信されるような仕方で、一回的かつ決定的な言語行為として成立するにはどんな条件がそろっていなければならなかったか。
1 預言者の生き生きとしたイマジネーション
2 預言者に神から与えられた徴
3 正しいこと、よいことのみに向けられた預言者の心
以上3つの主張可能性条件から預言者たちのメッセージは「何にもまして神を愛し、隣人を自分自身のように愛せ」という神の命令に帰着する。
普遍的信仰の教義 p.53 七箇条
1 神、いいかえれば正義と愛の生き方の真のお手本となるような最高の有が存在する
(このことを知らなかったら命令を聞けない)
2 神は唯一である(そう思っていないと絶対的な帰依、讃嘆、愛を抱くことはできない)
3 神は偏在する(神の目を逃れられるなら神の正義の普遍性があやしくなる)
4 神は万物に対する最高の権利と最高の権力を持つ
(これを知らないで絶対服従は考えられない)
5 神への崇敬と服従は正義と愛すなわち隣人愛のうちにのみ存する
(これは神の命令内容である)
6 神に服従するものは救われ、服従しないものは捨てられる
(そう知っていなければ服従する意味がない)
7 神は悔い改める者をゆるす(このことを知らないならとても服従する身が持たない)
「各人の信仰は真偽に関してではなく単に服従か不服従かに関してのみ敬虔な信仰あるいは不敬虔な信仰と見なされる」スピノザは真理を語っていなければ聖書でないという同時代人の大前提を解除してしまっている。
「普遍的信仰の教義」は、言ってみればそれ自身の無知によって真偽の詮索から守られている。
それはースピノザの言葉ではないけれどーある種の「文法」に属する事柄、聖書の神について何か思ったり言ったりするときに万人が知ってか知らずか一致して従っている文法規則、いわば「敬虔の文法」のようなものだ。だから真偽とかかわりなく「普遍的」であって、誠実な人なら異論の立てようがないのである。
神学と哲学の分離ー無関係の関係 p.58
「哲学の目的は真理のみであり、信仰の目的は服従と敬虔以外の何ものでもない。哲学は共通概念を基礎としてもっぱら自然からのみ導きだされねばならないが、信仰は物語と言語を基礎としもっぱら聖書と啓示とからのみ導き出されねばならない。」
従って、神学と哲学の間には「なんの相互関係もなんらの親近関係もない」無関係である。
「理性は真理と叡智の領域を、神学は敬虔と服従の領域を」→『神学政治論』前半の最終結論
スピノザ自身は「普遍的信仰の教義」を受け入れていたのだろうか。
スピノザの神は命令しない。「神あるいは自然」のあるがままの知的認識が、われわれ自身の最大の自己肯定と至福におのずと導く。だれの手も煩わせずに勝手に救われてしまうスピノザにとって、服従の必要条件としての教義は、はっきり言って無縁だ。だからといってスピノザは教義を虚偽として否定するわけではない。
「神あるいは自然」の知的認識と最大の自己肯定から生じる「よいことをしたい」という欲望、これを『エチカ』は同じ「敬虔」(Pietas)という言葉で呼ぶ。(第四部定理37備考1)
敬虔な行いは理由がなんであろうと敬虔である。スピノザが強調するように、正しく行う人は、宗教に教えられてそうしようと、理性に教えられてそうしようと、隣人愛の教えにかなっているというだけで等しく敬虔なのである。(第13章)
無関係であることによって聖書の信仰を信仰自身のために全面肯定するという、スピノザに独自のスタンスがある。
彼は「普遍的信仰の教義」を受け入れる。言われている事柄が真だからではなく、その文法的正しさゆえに受け入れるのである。