廃墟の美学
廃墟の美学
なぜ廃墟に惹かれるのかとか、そんな本かと思ったら、少し違った。廃墟絵画の美術史みたいな感じ?
動態としての廃墟、静態としての廃墟
この本、第3章「ピクチャレスクの円環」が非常におもしろい
ピクチャレスクは廃墟の美にも用いられる
ピクチャレスク美学との関連から、自然と人工物の秩序が混在したような廃墟の美について、筆者はこう説明している
ここで私たちは、かつて立原道造が聴講したという大西克礼の美学講義を想起することができる。その『美学』(一九五九年)のなかで、大西は廃墟の「美」の問題を採り上げ、こう述べている。
これは曾て昔「自然」を大規模に、力強く圧迫し、克服して築き上げられた城廓や宮殿楼閣などが、終に「廃墟」となつて、恰も元の「大自然」の中に半ば還元された状態に於いてーー即ち消極的意味に於いて――人間生活の所産が、「自然」そのものと融合するに至る場合であると言ってもよからう。
大西は廃墟の美というものを、「自然美」的現象における「様式化的変容」のひとつとみなしている。「様式化的変容」とは、「客観的なる『自然美』の要素と、民族的及び風土的に一定の『様式』を有つた人間生活の所産とが、或る仕方で結びつくことによつて、『自然』の景観そのものに、一種の『様式化』ともいふべきものが現れて来る場合」を指す。具体的にいえば、人間生活の根本条件ないしその所産、たとえば住居、交通、生産などの諸条件(住宅、城廓、道路、田畑、堤防、橋梁、舟、その他) が、「大自然」の景観のなかに織りこまれ、あたかも「自然」そのものと融合し、全体としての「自然美」の内包上に特殊な色調あるいは陰影を与えるような場合にほかならないというのである。廃墟美がそうしたもののひとつであることはいうまでもない。
第4章
18世紀、本場イタリアでの廃墟論
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ
ローマへの憧憬→壮大さへの愛着
18世紀まで、ローマは荒廃していた
古代ローマの特質→偉大=壮麗=壮大、大きさ、巨大嗜好性
三島由紀夫の芸術観→芸術には「大きな主題」などというものはない
ローマを「大きくて不完全なもの」として、ギリシアの「小さくて完全なもの」と対比して欠点とした
廃墟画と解剖画の類似性
パンニーニ
古代と近代のローマの対比
ユベール・ロベール
現在のルーヴルと未来の(廃墟化した)ルーヴル
廃墟画に(未来の)時間の概念を導入した
SF小説の先駆、ルイ・セバスチャン・メルシエ『西暦2440年』(1770)の影響?
第5章
ジョン・ソーンによるサー・ジョン・ソーンズ美術館
古代建築と彫刻の断片で埋め尽くされた空間
コレクションをそのまま建築やオブジェにしており、混沌としている
ピラネージの版画→ソーン建築との共通点
ソーン「建築は芸術の女王である」「絵画と彫刻は侍女」「絵画と彫刻によって建築は、音楽、詩、そしてアレゴリーの強大な力の全てを結びつけ開陳する」
あらゆる芸術に対する建築の上位思考
ソーンの建築内の彫刻、美術は、文化的に配列されておらず、恣意的である
ソーンの内的必然性に基づいている
語る建築、感情に訴える、効果
ソーンは本物にこだわってはいない
本物も偽物も、光と影、古代と現代、記憶と夢想の綾なす空間のなかで、ただ効果として一体化している
廃墟への関心、断片への思想→死との戯れ
コレクション→ナルシシズム、オブセッション→死への傾動
死のアレゴリー
1章から5章で、動態としての廃墟、静態への廃墟への移行、廃墟が断片化してコレクションと化す経緯を解説
最終の第6章はロマン主義から現代までの廃墟の主題を断片的に追っていく感じだった
6章もかなり興味深い内容であったが、ざっくり
ジョン・マーティン
サミュエル・コールマン
ハドソン・リヴァー派(アメリカ)
無人風景、無人幻想
ベルクソンの無をめぐる議論(『創造的進化』)
二十世紀の無人幻想→死をイメージさせる
第三帝国の廃墟の法則
廃墟と写真
ボードレール(写真は記憶の保存所)
バルト、ソンタグ、写真論(死について)
廃墟と紳士
本という廃墟(知の集積所の物質的崩壊)
廃墟は、時の仕業と人間の仕業はある
ヒュー・フェリス