ノート(くま子)
V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』読書メモ
この書籍に収められている三つの連続講演はフランクルが強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で行なわれたもの。フランクルのもっとも初期の著作の一つであるにもかかわらず、彼の思想の全体像の萌芽があらわれている(解説)。
Ⅰ 生きる意味と価値
カント以来、ヨーロッパの思索は、人間本来の尊厳についてはっきりとした見解を示すことができた。カント自身が定言命法の第二式で示している。
「あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。
しかし、ここ数十年の経済秩序の中で、労働する人間はたいてい自分の尊厳を奪われて、経済活動の単なる手段とされてしまった。人間とその生、その生きる力、労働力が経済活動という目的のための手段と化している。
それから第二次世界大戦が始まった。人間とその命が死のために役立てられるようになった。生命の価値はなんと低く見られたことだろうか。人間はどれほど尊厳を奪われ、貶められたことだろうか。
強制収容所ではっきりしていたことは、もはやどんなみじめなあり方でも「生産的」ではなくなった生命はすべて「生きる価値がない」とみなされたことだった。
世界滅亡の気分が20世紀の終わりを席巻している。その根底には宿命論がある。
私たちはペシミスティックになった。私たちはもはや進歩そのものを信じていない。人類の発展が自動的に達成されるなどとは信じていない。→進歩史観の崩壊?
現代はあらゆる熱情が乱用されたあげく、ありとあらゆる理想主義が打ち砕かれた時代。
私たちはこのようなニヒリズムを通りぬけ、悲観主義と懐疑を通りぬけ、古くなったしらけた「即物主義」を通りぬけ、新しい人間性に今こそ到達しなければならない。
すべては「人間性」、その人がどういう人間であるか"だけ"にかかっている、ということを私たちは学んだ。どんなおぞましい出来事の中でも、強制収容所の体験の中でも、その人がどんな人間であるかがやはり問題であり続けた。
他者の実存。存在はいつも、言葉よりも決定的だ。
明らかになったこと。
まずすべては、一人一人の人間にかかっているということ。
次にすべては、創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということ。
生きている意味がはっきりと問題視されるとき、すでに生きている意味がどこか疑わしいものになってしまっている。人間が生きている意味を疑うと、絶望に至るのは簡単。この絶望は、自殺を決断するという形で私たちの前に立ち現れる。
本書では、生きる意味がまったく信じられないという理由での自殺を考察する。
人間は「楽しみのために生きている」のではない。
ロシアのある実験心理学者の書物によると、普通の人間が日常生活の中で、快楽よりもずっと多くの不快感を体験することが実証された。
楽しみのために生きることはそもそも割に合わない。
こうした人間が楽しみをもとめたりお金に囚われたりすることによって幸せな生活を得ようとする迷いから目覚めることを、タゴールはある詩の中で見事に表現している。
私は眠り夢を見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く──すると、ごらん、
義務はよろこびだった。
生きるということは、ある意味で義務であり、たった一つの重大な責務である。
よろこびは帰結としておのずと湧くものである。
幸せは決して目標ではないし、目標であってはならないし、さらに目標であることもできない。
それは結果に過ぎない
幸せとは、タゴールの詩で義務といわれているものを果たした結果なのだ。
幸せを得ようとするといつも失敗することになる
キルケゴールによれば、幸せへの扉は、「外に向かって」開く。しきりに幸せを追い求める人、幸せへの扉を無理やり襲うとしている人にはまさにそれは閉ざされている。
人生の問いのコペルニクス的転回→「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うのではない。「人生は私になにを期待しているか」と問うだけだ。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているから。私たちは問われている存在である。私たちは絶えずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない。生きること自体、問われていることにほかならない。それは生きていることに責任を担うことである。
こう考えると、現在だけがすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいる。どんな未来が待ち受けているかは私たちは知る由もないし知る必要もない。
何年も前の新聞の短い記事に載っていた出来事。以前、無期懲役の判決を受けた一人の黒人が囚人等に移送された。その船が沖に出たときに火災が発生。その非常時に、その黒人は手錠を解かれ、救助作業に加わり、彼は10人もの命を救った。その働きに免じて彼は恩赦となった。
どんなことがまだ自分を待ち受けているかは誰にもわからない。どのような重大な時間が、唯一の行動をするどのような一回きりの機会がまだ自分を待ち受けているか誰にもわからない。
SNS断食
しばらくネット断食ではなく、SNS断食をしようか。DIscordもまたSNSに分類されるだろう。見る専にすぎなかったが、Twitterも消した。5chも見ないようにしよう。どうせ今なんJは規制を食らっている状態にあって書き込めないんだし(実は「創価はカルトと書き込めない」というスレでそのように書き込んだら本当に書き込めずその後、規制を食らった)。アープラノートも見ない。ただここと㊙だけは読書メモとして使わせてもらおうと思っている。字も汚いし、もう紙でメモを取るというのが馬鹿らしく思えてしまうようになったのだ。SNS断食と並行して煙草も、止めることはできずとも減煙しようと思う。
ワイ、悪習慣をやめるのめっちゃうまいんすけど、やめる対象は一度に一つにすることを強く推奨しますよ。uvoa.icon
㌧クㇲ
2022/07/29
午後6時頃、早速開いてしまう。
2022/07/28
今日から開始。
2022/07/26
まず削除してから少し寝て、起きたときに頭に浮かんだのはパスカルのあの気晴らしというワードだった。
・気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことを考えないことにした。
・惨めさ。われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかし、これこそわれわれの惨めさの最大のものである。
俺にとってDiscordは気晴らしだったのだ。ある意味、それが依存ということだろう。現実の耐えがたい不安から逃れるためにDIscordがあったのだ、という気づきを得た。そして気晴らしの対象がなくなったことによって、思考は自然と自己へと向かう。後に絶望したというのが先ほど21:30のことだった。しかし意外とみんな気づかずともそういう目的でSNSを使っているんじゃないだろうか。ネット断食はそういう自己への思索の機会を与えてくれる。明日のアープラノート会議とそれから読書会終了後から本格的にSNS断食を開始しようと思う。
思いつき2〜究極のカウンターカルチャー
ばるさん曰く、『反逆の神話』は「結局あらゆるカウンターカルチャーは資本主義や消費社会の餌になったよね」っていう本らしい。つまり簡単な話、消費しなければいいわけだ。ミニマリズムこそが最強のカウンターカルチャーであると言えるのではないか?という単純な価値転倒の思いつき。
いやいや「ミニマリズムの薦め」とかいう雑誌や書籍などとしてミニマリズムもまた消費社会の餌になっている。それらの書籍や雑誌を「買わずに借りる」という実践をしてこそ真のミニマリストと言える。
動画倍速の発見
動画を2倍速すると動画内で喋っている人の声質が変わる。高くなったように聞こえる。受ける雰囲気も変わる。柔らかい雰囲気が消え、固い印象になる。
文化人類学と民俗学の調査方法
文化人類学→フィールドワーク(野外調査)
民俗学→聞き書き
飯尾潤『日本の統治構造 官僚内閣制から議院内閣制へ』メモ
名著らしい。
第一章
日本において議院内閣制は機能しているのか?
議院内閣制だから日本の政治は思い切ったことができない?
「日本国憲法の原則は三権分立であり、議院内閣制を採用している」
アメリカは大統領制
イギリスは議院内閣制だが権力が内閣あるいは首相に集中する
「日本国憲法制定で民主化された」→議院内閣制の採用によって、民主的に選ばれた勢力に権力が集中した。
議院内閣制が機能しているかを見ることが重要になる
憲法上の原則から逸脱したり、民主制としては奇妙な側面
議院内閣制とは何かを問うことは難しい
議院内閣制を支える要素がいくつもあり、それらがそろってはじめて議院内閣制が機能する。また、議院内閣制にはさまざまな類型が存在し、ある国にとって不可欠の要素が他の国ではそうでもないということもあり得る。
先進民主政には大統領制と議院内閣制の二つがあるが、前者は二元代表制であり後者は一元代表制である。よって普通なら後者の方が権力集中的なはずなのだ。
議院内閣制のもっとも重要な特質とは、「行政権を担っている内閣が議会の信任によって成立していること」である。
ウォルター・バジョット『イギリス憲政論』
日本では議院内閣制の基本原理からはずれた現象が目につく。
五十五年体制が成立してから長らく自民党政権であり、衆議院選挙の機能が十分に発揮されていない。
選挙で政権政党を選ぶという認識は共有されていても、それが首相を選ぶことにつながるという認識は希薄。
首相選びは自民党内の総裁選によるところが大きい。
「議院内閣制では首相選任に有権者が関与できない」といった誤解の一般化
各大臣の権限の源泉は首相による任命にあるが、長期の自民党政権下では首相による大臣の選任という原理が曖昧になっていた。
当選回数を基本として各派閥から首相あるいは首相予定者に入閣リストが提示され(派閥推薦)、首相は原則的にそのリストから大臣を選ぶ慣行があったから
各大臣は首相のために働くというだけではなく、派閥のために働くという動機が生まれる
誰もがなりたがる大臣ポストを同僚議員に分配するために頻繁な内閣改造を行って、大臣は原則的に一年交代とする慣行も生まれた。
大臣の経験不足により、「半ば素人の政治家が代わる代わる大臣になる」事態となって、大臣が主体的に行動することが妨げられる
組織の長としての意識ばかりが肥大化すると、議院内閣制の原則が逆転し、省庁官僚制の代理人となってしまう。
内閣は首相を中心として団結した合議体から、それぞれ拒否権を持つ大臣からなる合議体へと変質し、議院内閣制は機能不全に陥ってしまう。
議会を背景とする議院内閣制に対して、官僚からなる省庁の代理人が集まる「官僚内閣制」
政府における最終的意思決定の主体が不明確化し、必要な決定ができなくなり、政権が浮遊してしまうこと
日本における議院内閣制の問題点の多くは官僚内閣制にある
日本国憲法も「強い首相」を中心とする議員内閣制として構想されている。
日本国憲法の条文をみる限り、内閣総理大臣は強大な権力を持っている。
第六五条で「行政権は,内閣に属する」とされているものの、その内閣は第六六条で「首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する」とされ、内閣総理大臣の地位は明確である。
内閣総理大臣は国務大臣を任命するほか、「任意に罷免することができる」(第六八条二項)とされる。これは国務大臣が内閣総理大臣の代理人であることを明確にした条文である。つまり日本国憲法上の内閣総理大臣は戦前の「同輩中の首席」にとどまる存在ではない。
内閣法第三条(「各大臣は、別に法律の定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する」)を強く解釈すると、憲法上の内閣総理大臣の権能は大きく制約される
戦前の「同輩中の首席」のような内閣総理大臣像
議院内閣制では普通なら内閣総理大臣に権力が集中するはずだが、各大臣に各行政責任が生じて内閣の職務が分担された結果として、内閣総理大臣にはほとんど権限が残っていないという奇妙なことになる
「強い分担管理原則」のもとでは、内閣は各省大臣がそれぞれ独立した基盤を持って集まる場所だと考えられる。これでは背景に有権者の負託を背負っているという議院内閣制の原則は薄らいでしまう
官僚からなる省庁の代理人としての各省大臣が集合する内閣である「官僚内閣制」は、分担管理原則に負うところが大きい
第2章
「官僚内閣制」というと官僚が政治を支配しているように捉えられるかもしれないがそうではない。
官僚は一枚岩の集団ではなく、様々な社会集団とのネットワークのなかで仕事をしており、その関係に拘束されるから
音楽の断想
宇多田ヒカルの曲のジャンルはなぜR&Bと位置付けられているのか。初期の頃の音楽がR&B路線だったから。デビュー曲の「Automatic」もそうだし「Distance」辺りまでこの路線を貫いていたようだ。
個人的には「タイムリミット」や「For you」の雰囲気が好き。
https://youtu.be/iJoNSuGpjNc
https://youtu.be/evvXqGJk1T8
R&B色が最も色濃く、「グルーヴ感」と「抜き」がキーワードになっている。
デビュー時から一貫した特徴として、楽曲の中で歌とリズムがもっとも引き立つようにしてあることが挙げられる。その二つがガッチリかみ合い、バスドラのキック音を強めにすることでグルーヴを出し、伴奏は極力控えめな印象だ。また、伸ばす音を歌っている時だけ、ドラムのキックやキーボードが刻む伴奏の音を、隙間(休符)を残しつつ少しだけ入れることにより、グルーヴが出る。
思いつき
コミュニティにいると、「〇〇さんのせいで雰囲気ガー」という話をよく聞く。初期の頃は自分もたまに言っていた節がある。
「誰々が悪いのではなくシステムが悪い」とする元帥さんの考え方は素敵だ。こういう思考法を真似るようにしたい。
プロジェクトの使い方
このプロジェクトの使い方がよく分からない。他の参加者のノートを見ていると学んだことを逐一記述していくのに向いているのだろう。
CLAVISさんが書いているように、「とりあえず一箇所にまとめて記述する」ことのメリットもあるのかもしれない。
1行空けて記述すると自動的に線が引かれる仕様になっている。面白い設定だと思うが慣れるまで時間が掛かりそうだ。
記述の最後に日付を書くことを徹底させよう。
うまく扱うことができたらこのプロジェクトに篭ることになるかもしれない(2022/7/23)
ログ
メモノートプロジェクトに参加(2022/07/22)