政治から見た明治から第二次世界大戦までの流れの外観(メモ)
明治から大正時代までは超然内閣であり、大正デモクラシーの頃に政党内閣制が誕生し、昭和初期までしばらく続いたが、五・一五事件という軍部テロをキッカケに崩壊し、軍部の影響力の強い内閣が誕生して第二次世界大戦に突き進んでいった。
明治から大正時代までは超然内閣であり、大正デモクラシーの頃に政党内閣制が誕生し、昭和初期までしばらく続いたが、五・一五事件という軍部テロをキッカケに崩壊し、軍部の影響力の強い内閣が誕生して第二次世界大戦に突き進んでいった。
明治憲法には内閣の規定がなかった→政党内閣制の正統性を担保することが難しい
美濃部達吉は不文憲法の考え方を適用し政党内閣制を支えた理論家であったが、天皇絶対主義の上杉慎吉と対立した。
しかし「国体明徴」の名の元、美濃部の「天皇機関説」が攻撃されたとき、反論が難しかった。
政党内閣が続いても、政党が勢力拡大のために相互に攻撃しあって人気を落とすと、政党内閣制への批判が強まった。
明治憲法体制は、権力集中による独裁者を生み出したことによって崩壊したのではなく、意思決定中枢を欠くために、指導者がお互いに手詰まり状況に陥り、事態打開のための決断が遅れ、積み重なった既成事実が選択肢を狭めるなかで、対米開戦といった破滅的決定を下し、崩壊へ突き進んだのである。
飯尾潤『日本の統治構造 官僚内閣制から議院内閣制へ』