自分の不足ばかりが目につく、という質問をした者です
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質問
自分の不足ばかりが目につく、という質問をした者です。お答えいただきありがとうございました。以下は答えていただいたことへのお返事のつもりで書きました、しかし何度か書き直したのですが、どうもまとまりませんでした。流してもらって結構です。申し訳ありません。 急に熱くなるとのことですが、体調を崩されませぬよう何卒ご自愛ください。 自分がもち続けアイデンティティとほぼ同化しているという考えが、そのような危険な思想だとは思いませんでした。自分でも「自己中心的である」ということは薄々自覚しており、時折外へ目を向けようと意識しているのですが、どうしても自分の欠点にばかり注視してしまう無限ループに陥ってしまい、外に目を向けることができずに今日までに至っています。私は過去就職に失敗しており、未だに完全に自立ができていないのですが、確かにこのような前進しないような人物は採用したくないよな、社会は正常だなと思いました。 また「配られたカードの悪さを嘆くばかりで」「どう勝負すべきなのか」を尋ねていないというのは鋭いご指摘だと感じました。確かに聞きたいのは、どうやって勝負していけばいいのかがお聞きすればよかったと思いました。ただ自分が持っているカードが、ただ漠然と「悪い」ということしか分からず、ゲームが始まっているにもかかわらず基本的なルールも勝負の方法もわからないままだったので、聞くに聞けなかったのです。先のことと関連しているのですが、自分を守ってくれているものも確かに存在はしますが、それも守ってくれているということに対して常に後ろめたい気持ちを持っており、カードに加えたくない加われたくないだろうと勝手に思っているというところが正直な気持ちです。 こんな状態の自分が、外へ、社会に目を向け、自分のカードで勝負していくことができるのでしょうか。またどうしたらくるぶし様が仰られるような想像力を身につけることができるのでしょうか。
解答
自己卑下に明け暮れる人が何故、世界が自分中心に回っているかのごとき天動説的世界観に陥るのかといえば、自分についての/自分に向けての否定的な思考ばかりで意識が埋め尽くされるからです。 他の人のことを考えるときでさえ、「あの人は私を嫌っているに違いない」などと、ここでも主題はぜんぶ自分です。しかし自己卑下者が信じるように「私は取るに足りない人間だ」というのが事実ならば、他の人は自己卑下者のことなど、ほとんど考えたりしないでしょう。自己卑下者だって自分のことで手いっぱいで、他の人のことを(例えば他の人だって自己卑下に苦しんでいるかもしれない可能性を)考えてみないのだからお互い様です。
自分のことで悩む人が、他人のことを考えられないのはヒトという生き物の仕様です。その意味では自己卑下者を「自己中心的でけしからん」と道義的に批判するのは、「ヒトは空も飛べやしないからクソ生物」だとなじるのと同様に間違っています。 しかしこの仕様は理解するに値します。
というのも、次のような悪循環の基礎になるものだからです。 自分はダメな人間だと悩む→自分のことだけに注意という認知資源を消耗する→他のことに注意(認知資源)を割けない→パフォーマンス落ちる、失敗も増える→やっぱり自分はダメな人間だと悩む→…(以下繰り返し)
この悪循環は自己成就型予言というものにもなっていて、最初の認知(予言)が事実と違っていたとしても、悪循環をめぐるうちに事実の方が認知(予言)に近づいていくために「やっぱりそうなんだ」とますます認知(予言)が強化される悪質なものです。 なので認知を(自己説得を含む)働きかけなどで変えることは難しい。
しかし悪循環として把握されたなら、そのループのどこかに介入して、ループを組み替えるなど対策が考えられます。
実はこの悪循環が自然に解ける場合があります。例えば肉親が倒れて看護·介護に奔走しなくてはならないなど、自分のことにかまってる場合じゃなくなる場合です。事態が落ち着いてしまうと「他にやる人がいないからやっただけ」などと言って自己評価を改訂することにつながりませんが、しかし危機的状況に対処した行動の量と質は自己卑下が足を引っ張っていた状態とは大きく異なります。
これを抽象化すると、この悪循環を解く方策の一つは「自分以外のもの(のため)に必死になる」です。これまで自分に消費される認知資源が強制的に他へ向けられると、この悪循環ループはゆるみ、ほころびが生じます。
注意(認知資源)を振り向ける対象は、倒れた家族でなくても、2/2.5/3次元の推しでも、無生物でも抽象概念でも構いません。「これといって趣味などなく」「趣味に割ける時間もお金もない」場合は、仕事(お金儲け)でもよい訳です。
多くの仕事は別に、前進することを心掛ける「意識の高い」人間など求めていません(求めているとしたらやりがい搾取をたくらむ連中でしょう)。
大抵の職場はあなたの自意識を気にするほど暇ではありません。自分は周囲からどう思われているかを気にすることに割く認知資源を、必要な作業に振り向ける人材を求めているだけです。
しかし自己注意の癖がほとんど習い性になっているならば、急には修正できません。ふと気づくと自分を主題にしたセルフトークをはじめているかもしれません。あなたはこの道の熟練者なので、これを資源にする方策を考えてみます。 以下は、習い性に抗する作業なので、頭の中だけでやらずに紙に書き出すなど外部記録を用いた方がよいでしょう。
一人称を三人称に変えるワークです。他人や社会に対する想像力をビルドアップするトレーニングを兼ねています。メンタルの素振りのようなものです。
1.まず自分についてのセルフトークをひとつ書き出します。
「私は社会的スキルが劣っている」
2.次にこのセルフトークはどれくらい信じられるかを0~100の数値で評価します
(0:全然信じるに値しない、100:全く疑いようがない)
3.次に上記のセルフトークの中の一人称(私)を三人称に書き換えます。例えば
「少なくない人は社会的スキルが劣っている」
4.そしてこのの3人称化トークについても、どれくらい信じられるかを0~100の数値で評価します。
※2と4の評価は(1)感情·感覚ではこれくらいと感じるけれど、(2)理性で考えるとこれくらい、とできれば分けた方がトレーニングになるでしょう。
たとえば、「少なくない人は社会的スキルが劣っている」について、感情・感覚では確信度10くらいだ(とてもそうは思えない)けれど、理屈で考えると人並みの社会的スキルが平均値や中央値だった場合、大半の人はそれより劣ったスキルしかないことになるはずです。すると確信度はもう少し高くてもいいはずです。
また「私は社会的スキルが劣っている」も、感情・感覚的には確信度90だけれど、理屈で考えると自分が社会スキル的に社会の最下層に位置すると考えるのは、あまりに自分を特別視しすぎです。もう少し疑ってもいいかもしれません。