1.1 幼年期
土佐の国、高岡郡佐川さかわ町、この町は高知から西へ七里隔ったところにあり、その周囲は山で囲まれ、その間にずっと田が連り、春日川という川が流れている。この川の側にあるのが佐川町である。南は山を負った町になり、北は開いた田になっている。人口は五千位の小さい町である。この佐川からは色々な人物が輩出した。現代の人では田中光顕みつあき・土方寧ひじかたやすし・古沢滋うろう(迂郎が元の名)・片岡利和・土居香国どいこうこく・井原昂のぼる等の名を挙げる事ができる。古いところは色々の儒者があり、勤王家があった。この佐川町から多くの儒者が出たのは、ここに名教館めいこうかんという儒学つまり漢学を教える学校があり、古くから教育をやっていたためである。佐川には儒者が多く出たので「佐川山分さんぶん学者あり」と人がよくいったものである。山分とは土地の言葉で山が沢山あるところの意である。 https://gyazo.com/83e966da7f97c84da0167c9ed7b93a74
佐川の町は山内家特待の家老――深尾家の領地で、それがこの町の主権者であった。 明治の代になり、文明開化の世になると学校も前とは組織も変わり、後にはそこで科学・文学を教えるようになった。そうなったのが明治五、六年の頃であった。
維新のゴタゴタは全然関係ない雰囲気だったのだろうか? 増井俊之.icon
明治七年にはじめて小学校制がしかれたので名教館は廃され、小学校になった。
佐川の領主――深尾家は主権者だが、その下に多くの家来がいて、これらの武士は町の一部に住み、町の大部分には町人が住んでいた。そして町の外には農家があった。近傍の村の人達は皆この町へ買物にきた。佐川の町には色々の商人がいて商売をしていた。佐川は大変水のよいところなので酒造りに適していたため、数軒の酒屋があった。町の大きさの割には酒家が多かった。
この佐川の町にかく述べる牧野富太郎牧野富太郎.iconが生まれた。文久二年四月二十四日呱々ここの声を挙げたのである。牧野の家は酒造りと雑貨店(小間物屋といっていた。東京の小間物屋とは異なっている)を経営していた。家は町ではかなり旧家で、町の中では上流階級の一軒であった。父は牧野佐平といって、親族つづきの家から牧野家へ養子にきた人である。牧野家家付の娘――久寿は、すなわち私の母である。 かなり金持ちの部類だったんだろうね 増井俊之.icon
佐平と久寿の間にたった一人の子として私は生まれた。私が四歳の時、父は病死し、続いて二年後には母もまた病死した。両親共に三十代の若さで他界したのである。私はまだ余り幼かったので父の顔も、母の顔も記憶にない。私はこのように両親に早く別れたので親の味というものを知らない。育ててくれたのは祖母で、牧野家の一人息子として、とても大切に育てたものらしい。小さい時は体は弱く、時々病気をしたので注意をして養育された。祖母は私の胸に骨が出ているといって随分心配したらしい。酒屋を継ぐ一人子として大切な私だったのである。
生まれた直後、乳母を雇い、その乳母が私を守もりした。この女は隣村の越知おち村からきた。その乳母の背に負ぶさって乳母の家に行ったことがあった。その時乳母の家の藁葺わらぶき家根が見えた時のことをおぼろげに記憶している。これが私の記憶している第一のものである。その後乳母に暇をやり、祖母が専ら私を育てたのである。 酒屋は主人が亡くなったので、祖母が代わって采配を振って家の面倒を見ていた。旧ふるい家であるので、自然に家の定きまりがついていて、家が乱れず商売を続けていた。 家には番頭――この男は佐枝竹蔵といった――がいてよく家のために尽していた。この男は香美かみ郡の久枝村から奉公にきた人である。これがなかなかのしっかり者であり、後に独立して酒屋を営んでいた。こういう偉い番頭がいたので主人亡き後も、よく商売が繁昌していた。 その頃のことでよく憶えていることは、私はよく酒男さかおとこに押えつけられて灸をすえられたことである。それが病身の私を強くしたとも思う。 ある時番頭が、その頃極めて珍しかった時計を買ってきたことがあった。私は時計が不思議でその中を見たくてたまらず、時計を解剖してよく納得いくまで中を調べて見た。誠太さんには困ると皆がいった。誠太郎は私の幼名である。
私は段々成長し、明治四、五年頃寺子屋に行き、習字を習った。寺子屋は佐川の町の一部―西谷に〔あり、〕土居謙護けんごという人がお師匠さんであった。そこでイロハから習った。そうするうちに寺子屋を替えた。 佐川から離れた東の土地に目細めほそというところがあって、そこに伊藤徳裕のりひろ、号を蘭林という先生がいて沢山の書生を集め、主として習字・算術・四書・五経の読み方を教えた。私はそこへ入門した。門弟は大抵たいていお士さむらいの子弟で、私のような町人は山本富太郎という私と同名の男と二人だけだった。私がそこに入ったわけは、世の中がこのように開けてきたから町人でも是非学問をしなければいかん、というので入ったわけである。その時分にはまだ町人と士族とには区別があり、士族は町人より上座に坐り、食事の時などは士族は士族流に町人は町人流に挨拶をしたものである。そこに行っておるうちに寺子屋の制度が変わり、寺子屋は廃されることになった。私は名教館に移った。 その頃の名教館では以前と異なり、日進月歩の学問を教えていた。そこでは訳書で、地理・天文・物理などを教えていた。
その頃物理のことを窮理きゅうり学といっていた。その時習った書物を挙げると、福沢諭吉先生の『世界国尽づくし』、川本幸民こうみん先生の『気海観瀾広義』(これは物理の本で文章がうまく好んで読んだものである)、又『輿地誌略』『窮理図解』『天変地異』もあった。ここで私ははじめて日進の知識を大分得た。 そうしておるうちに明治七年はじめて小学校ができ、私も入学した。私は既に小学校に這入はいる前に色々と高等な学科を習っていたのであるが、小学校では五十音から更あらためて習い、単語・連語・その他色々のものを掛図について習った。本は師範学校編纂の小学読本であった。博物図もあった。
その頃の学校にはボールドはあったが、はじめチョークというものが来なかったので「砥の粉とのこ」で字や画をかいたが、間もなくチョークが来た。 小学校は上等・下等の二つに分たれ、上等が八級、下等が八級あって、つまり十六級あった。試験によって上に進級し、臨時試験を受けて早く進むこともできた。私は明治九年頃、せっかく下等の一級まで進んだが、嫌になって退校してしまった。嫌になった理由は今判らないが、家が酒屋であったから小学校に行って学問をし、それで身を立てることなどは一向に考えていなかった。
小学校を退いてからは本を読んだりして暮らしていたらしいが、別に憶えていない。
私はその前から植物が好きで、わが家の裏手にある産土うぶすな神社のある山に登ってよく植物を採ったり、見たりしていたことを憶えている。こういう風に悠々遊んでいたわけだが、明治十年頃、ちょうど西南の役の頃だったか、私のいた小学校の先生になってくれといってきた。その頃は学校の先生といえば名誉に思われていたので私は先生になり、毎日出勤して生徒を教えた。校舎は以前の名教館のであった。役名は授業生というので、給料は月三円くれた。それで二年ばかりそこの先生をしていた。 それより少し前に佐川に英学を入れた人がある。高知の県庁から長持ながもちに三つ英書を借りてきたのである。地理・天文・物理・文典・辞書等があった。そして高知から英学の先生が二人雇われてきた。その中の一人を長尾長といい、他の一人を矢野矢といった。二人とも似たような珍な名の先生であった。この二人の先生はABCから教えてくれた。だから私はかなり早くから英学を習った。 これは新知識を開くに極めて役立った。
その時分の本は色々の『リイダァ』、文法ではアメリカの本で『カッケンボスの文典』『ピネオの文法書』、『グードリッチの歴史書』『パァレー万国史』『ミッチェルの世界地理』『コルネルの地理』『ガヨーの地理』(その時分フランス語の発音が判らずガヨーをガヨットといっていた)『カッケンボスの物理学』『カッケンボスの天文学』その他色々な地図や算術書もあった。辞書では『エブスタアの辞書』また英和辞書もあった。英和辞書のことは薩摩辞書と呼んでいた。その時分ローマ字の『ヘボンの辞書』などもあった。このように佐川は他よりも早く英学を入れたわけである。
私はその頃、地理学に興味をもち、日本内地は勿論世界の地図を作ろうと考えたこともあった。
私は小学校の先生をしていたが、学問をするにはどうも田舎に居てはいかん、先に進んで出ねばいかんと考え、小学校を辞し高知へ出かけた。
その頃東京へ出ることなどは全く考えなかった。東京へ行くことなどは外国へ行くようなものだった。
高知に下宿してたてこと? 増井俊之.icon
高知で私は弘田正郎という人の五松学舎という塾に入った。その頃はまだ漢学が盛んであった。五松学舎は高知の大川筋にあった。 17歳のとき
入塾はしたがあまり講義を聴きに行かなかった。弘田先生が「牧野という男が入塾した筈だが、さっぱり来んではないか」といったそうである。その頃、植物・地理・天文の本を見て、興味をもって勉強していた。五松学舎の講義は主に漢文だった。ここ〔に〕数ヵ月いるうちにコレラが流行したので、ほうほうの態ていで佐川に帰った。 コレラについては面白い話がある。その時分コレラの予防には石炭酸をインキ壺に入れ、それを鼻の孔になすりつけ予防だとしていた。鼻につけるとひりひり滲みた。
五松学舎時代にはよく詩吟をした。その頃よく詩集を写したりした。吟詩で想い出すが私は現在の詩の吟じ方が気に入らない。詩には起・承・転・結があり、転句で転ずるのがラジオなどで聴いていると転句のところでまるで喧嘩でもしているように怒鳴る。あれではいかん。もっと節廻しをよくやらにゃいかんと思う。吟詩は勢いついていいものだ。その頃の書生は吟詩をやり、剣舞をやりなかなか勢いがよかった。そんな風だったから道楽して芸者遊びをする風は少なかった。しかしいわゆるお稚児ちごさん(土佐ではとんとという)の風は相当にあったと思う。 私も世の書生と同じく、その頃は吟詩などをやってなかなか威勢がよかった。
明治十二年に高知へ丹後の人、永沼小一郎という人がきた。この人は神戸の学校の先生で、高知の師範学校の先生になってきたのである。 西洋語の多少できる人で、科学サイエンスのことをよく知っていて、植物のことにも詳しかった。永沼先生と私とは極めて懇意になった。早朝から夜の十一時頃迄、話し続けたこともあった程である。永沼先生はベントレーの植物の本を訳し、また土佐の学校にあったバルホアーの『クラスブック・オヴ・ボタニイ』という本の訳もし、私はそれを見せてもらった。この人は実に頭のよい博学の人で、私は色々知識を授けられた。永沼先生は土佐に久しくいたが、その間高知の病院の薬局長になったりした。化学・物理にも詳しく、仏教もよく知っていた。永沼先生は植物学のことをよく知っていたが、実際の事は余りよく知らなかったので、私に書物の知識を授け、私は永沼先生に実際のことを教えるという具合に互に啓発しあった。 永沼先生は後に土佐を去り東京で亡くなった。私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である。
明治十三年頃、佐川に西村尚貞という医者がいて、私はよくその家に遊びに行ったものだが、医者なので色々のことを知っていた。この医者の家に小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の写本が数冊あって色々の植物が載っていた。私はそれを借りて写したが、余り手数がかかるし、欠本もあるかもしれんのでこの本が買いたくなった。それで洋品屋に頼んで大阪なり、東京なりから取寄せて貰うことにした。間もなくこの本がきたが、それについて、今でも想い出すことがある。 その時分私はよく友人と裏山に行って遊んでいたが、ある時、山で遊んでいると、私の親友だった堀見克礼かつひろという男が駈けつけて「重訂啓蒙という本がきたぞ」と知らせてくれた。私は慌てて山を駈下り頼んだ人の店へ駈けつけた。それが小野蘭山の『重訂本草綱目啓蒙』であった。 何をして遊んでたんだろう... 増井俊之.icon
それ以来、私は明暮あけくれこの本をひっくり返して見ては色々の植物の名を憶えた。当時は実際の知識はあるが、名を知らなかったので、この本について多くの植物の名を知ることができた。
産土神社の山は頂上を長宗寺越えというが、その山を越えて下る坂道で、ちょうど秋の頃だったが、「もみじばからすうりもみじばからすうり.icon」を採りたくて行った時、丈の高い菊科のもので白い花を付けている植物があった。名は無論知らなかった。その後『本草綱目啓蒙』を見ていたら、東風菜という個所に「しらやまぎくしらやまぎく.icon」というのが載っており、山で見たものと酷似しているので、翌日再び山に登り、本と実物とを引合せたところ、やはり「しらやまぎく」であった。私はその時はじめてこの草の名を憶えた。 私はその頃盛んに山に草採りに行ったが、かす谷という所で面白い繖形さんけい繖形.icon科の植物が水際にあるのを見付けて零余子むかご零余子.iconが茎へ出ていたので、それを採って帰り、「むかごにんじんむかごにんじん.icon」であることを知った。また町の外から水草を採ってき、家の鉢に浮して置いたが、その草の名を知りたいと思っていると家の下女が「びるむしろ」だといった。私は『救荒本草』という本を高知で買って持っていたが、その中に似た草があったことを想い出し、調べた結果、この草は眼子菜、「ひるむしろ」であることをはじめて知った。また町の近所で上に小さな丸い実のある妙な草があったので、『本草綱目啓蒙』で調べたところ、それは「ふたりしずかふたりしずか.icon」であった。このように自分の実際の知識と書物とで、名を憶えることに専念した。 前に述べた親友の堀見は私より年少の男で、父君は医者だったが、私は堀見の家で『植学啓原』という本を見た。この本は三冊あり、宇田川榕庵のつくった和蘭オランダの本の訳本で、西洋の植物学を解説したものであったが、この本について植物学を勉強した。リンネの人工分類(自然分類でない)を習い、植物学の種々なる術語をこの本について会得した。この本は漢文で書いてあったので、自分で仮名混りに翻訳した。 この時分には植物の本に限らず、他の本も色々買っては読んだものである。
こうするうちに、もっと書籍が買いたくなり、また顕微鏡というものが欲しくなったりしたので、東京へ旅行することを思い立った。ちょうどその頃東京では勧業博覧会が開催されていたので、その見物という意味もあった。明治十四年の四月に佐川を出発して東京への旅に上った。
当時東京へ行くことは外国へ行くようなものだったので盛んな送別を受けた。同行者は以前家の番頭だった佐枝竹蔵の息子の佐枝熊吉と、旅行の会計係に一人実直な男を頼んで三人で佐川の町を出発した。佐川から高知へ出て、高知から海路神戸に行った。生まれてはじめて、汽船というものに乗った。
神戸の山々が禿山はげやまなのを見て最初雪が積っているのかと思った。土佐の山には禿山はないからである。 明治のはじめの六甲山は禿山だったらしい 増井俊之.icon 明治後期に頑張って植林したらしい
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神戸から京都迄は汽車があったので京都へ出、京都から歩いて大津・水口・土山を経、鈴鹿峠へ出、四日市に出て横浜行の汽船に乗った。
京都から四日市まで歩いた!? 増井俊之.icon
その間慣れない様々な植物を見た。茶筒に入れて国へ送り植えて貰った。「しらがし」などは極めて珍しかった。「あぶらちゃん」の花の咲いた枝をとり、東京まで持って行った。 四日市から乗った汽船は遠州灘を通って横浜へ行くのであるが、外輪船であった。船の名は和歌浦丸と呼んだ。横浜迄三等船室にごろごろしていた。横浜から汽車で東京に着いた。神田の猿楽町に郷里の人がいたので訪ね、下宿を世話して貰い、同じ猿楽町に泊ることになった。下宿の窓から朝、富士の秀峰を見て感嘆したりした。 東京滞在中は勧業博覧会を見たり、本屋で本を買ったり、機械屋で顕微鏡を買ったりした。山下町の博物局(今の帝国ホテルの辺)へも行った。田中芳男という人にはじめて会った。博物局では小野職愨もとよし・小森頼信という植物関係の人に会い、植物園を見せて貰ったりした。ここで珍しい植物のある植木屋を教えて貰い、そこに行って、色々な植物を買った。 東京へ来た序ついでに日光へも行った。千住大橋から日光街道を徒歩または人力車で行くのだが、途中宇都宮に一泊した。日光の杉並木を人力車で通り中禅寺まで行った。
人力車で中禅寺まで登れたのか!? 増井俊之.icon
中禅寺の湖畔に石ころが積んであり、その石ころの間から「にら」に似たものが生えていた。臭いを嗅いでみると「にら」のようだった。今考えるとそれは「ひめにらひめにら.icon」に違いないが、その後日光で「ひめにら」を採ったという人の話を聞かない。私が行ったのはちょうど五月頃で未だ寒かったが、五月頃探せば今でも何処かに生えているかも知れぬ。 日光から帰京すると直ぐ郷里へ帰ることになったが、帰路は東海道を選んだ。横浜迄汽車で行き、後は徒歩・人力車・乗合馬車などで行った。服装は田舎者丸出しの着物姿だった。一週間ばかりで京都へ着くのであるが、私は関ヶ原辺で同行者と別れ単身伊吹山に登ることにして、他の者とは京都の三条の宿で待合すことにした。伊吹山の麓では薬業を営む人の家に泊り、山を案内して貰った。頂上までは登らなかったが(弥高方面であった)色々の植物を採集した。その時分には胴籃どうらんがなかったので、採った植物は紙の間に挟んだりして持ってきた。泊った家の庭に「あべまきあべまき.icon」が、薪にして積んであるのを珍しく思い土産に持ち帰った。 伊吹から長浜へ出、琵琶湖を汽船で渡り大津へ出、京都で他の者と落合い、無事に佐川に帰った。
どう連絡して落ち合ったんだろう... 増井俊之.icon
伊吹山で採集したものの中には仲々珍しいものがあった。明治十七年に再度上京し大学の松村〔任三〕助手に会った時、私が伊吹で採った「すみれ」を見せたところ、この「すみれ」は大学の標品中にもないもので大変珍しく、外国の文献によりヴィオラ・ミラビリスなることが判り、和名がないので、「いぶきすみれいぶきすみれ.icon」と命名された。 佐川へ帰ると大いに土佐の国で採集せねばいかんと思い、佐川から西南地方の幡多はた郡一円を人足を連れて巡り、かなりの日数を費して、採集して歩いた。 その頃東京で出ていた農業雑誌に植物のことがよく出ていて、私はそれを見るのを楽しみにしていた。その中に、「科ファミリイ」のことが出ており、「科」のことを憶えた。 私は郷里に科学サイエンスを拡めねばならんと思い立ち、理学会なる会を設け、私が集めた科学書を皆に見せたり、討論会を催したり、演説会を開いたりした。私の郷里の若い人達は皆この理学会に入っていたものだ。場所は小学校を用いていた。私はこのように、私の郷里に科学サイエンスを早く入れたわけである。 佐川の町の人が科学サイエンスに親しむ風があったについては、佐川が有名な化石の産地であることも与あずかって力ある。具石山・吉田屋敷・鳥の巣等には化石の珍物が出るので名高い。ナウマンナウマン.iconという鉱物学の先生や、地質学の大御所だった小藤ことう文次郎先生等も、化石採集に佐川にきた。 小藤先生が佐川に見えた時鼠色のモーニング・コートを着ていられたが、私はその服が気に入り、小藤さんから服を借りて洋服屋を訪ね、それと同じものを註文したことがあった。
私もよく化石を採集したが、佐川の外山矯という人は化石蒐集家として特に名高く、学者がきた時などは、大変便利だった。
佐川に出る貝の化石のダオネラ・サカワナというのは、この佐川から出た化石に命名されたものである。
情報を得たり連絡したりするのはどうやってたんだろう? 増井俊之.icon
電話なんてないだろうし (日本最初の電話は1890年)
明治維新のころは世の中バタバタしてたと思うが、そういう雰囲気は感じられないなぁ 増井俊之.icon