特定のキャラを好きになるとはどういうことか?
たぶん、個人的にまつどのアニメベスト100あたりに選んだ作品に出てくるキャラはかなり好きな方だと思うけど、「好き」と公言するほどなのかなと思ったりもして、あまり好きなキャラを書くことはなかった。「魅力的だと思う=好き」かと言われると 特定のキャラ同士の関係性がすきなのだという意見もある。
BL論あたりにそういう文章が多そう。
ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)
たまに、推しキャラのことが本当に好きなのか、
「情熱を探そう」というアドバイスはもうやめよう
欲望を隠そうとするから欲望と建前が分離してカワウソ(皮嘘)の概念が生じたってことは、真武が死に際に言った「欲望を手放すな、未来は欲望をつなぐ者だけが手にできる」=自分の欲望を受け入れればカワウソは消えるってことか 欲望をつなぐって自分と欲望をつないでひとつになるってことだったんだ
— よした◎6/23西3G15b,6/30三昧R02 (@ystpc) 2019年6月6日 自分は『宇宙よりも遠い場所』『TARI TARI』『SHIROBAKO』のように、複数人のキャラクターが、全く違う目的で、人生のうちの短いあいだだけ、一緒に同じことをやっているというお話が好きなんだよ
「みんな幸せに暮らしました」で終わる話だと、自分の入り込む余地がないじゃないですか。「みんなそれぞれの道に分かれましたが、あの旅のことを忘れることはありませんでした」であれば、「そうそう、俺もキャラとはお別れだけど、このお話を大切にして生きていくわ」という立場になれるから。
アニメキャラに対して、データベース消費的な態度をとるオタクって、殆どいなくなったような気がする。死語というか、そういう消費スタイルが2010年頃には「萌え」と一緒に耐用年数を迎えてた。
その「私にはわからないもの」が、人によっては脚本であったり作画であったりキャラ同士の関係の描き方であったりする。
そういった非常に広い射程を持つ作品で、自分には理解しきれない……だがそれに詳しい人が見ても鑑賞に堪える「良さ」があるに違いない、という信頼が「いいぞ」に変換される。
二次元キャラに対する愛とその関係性「自分が変わるしかない」から楽なのかもな。リアルの相手だと「向こうが私に合わせてくれるかもしれない(合わせるべきだ)」という部分から不和が起こる、二次キャラはその固有された性格を「変えることができない」から、私が変わるしかない、だから楽。
普通の作品は、「キャラクター」と「物語」が並列に関係して存在している。それはどちらが欠けても作品としては成立はしないが、「物語」を外すことで「キャラ萌」を生み、「キャラクター」を外すことで「シナリオ」が残る。つまり作品としての完成形とは別に「キャラ」と「物語」を分けて鑑賞できる。
[メモ]昨今の拡張現実は、ある側面として、要するにキャラを自分の身に宿すというか、降ろす、イタコみたいなものだと思うんだけど、そういうことじゃねぇかなあと思ったりする。単純に、目線が変わるだけじゃ、はいそうですか終了、だし。変わった、だから、如何にそこで行動するか、というか。
萌えが分からないって人でもオタクはオタクなので、二次元の好きなキャラ(今で言う推し)がいないはずもないのだが、それは萌えとは違うと思うと言ったり、二次元より三次元のほうがいいと言ったり、なんか別物として区別しようとする反応がよくあった(今でも年配の人にはある)
大人だ!大人のアドバイスだ!
質問者の、「二次元のキャラを愛する」っていうのが決まり文句みたいに言えてるの、ちょっと引っかかる。何か特定の作品中の登場人物を愛しているときに「私は二次元のキャラを愛してます」って躊躇なく言えるもんかな? オタクなら「いま夢見りあむって娘が好きで…いやあのデレマスというゲ(超早口