『五等分の花嫁』下調べ
才能は遺伝か環境かという議論があるが、双子ものは、遺伝という要素を揃えて、環境によってどのように変わっていくかを思考実験する意味で面白いと思ってる。もしくは、これに似ているタイプの物語というと、ループものであったり、平行世界ものであったり、多世界解釈ものが挙げられるが、こちらもまた個体を揃えているので、遺伝という意味で同じで、さらに行動によって結末がどう変化するかということを実験するという意味で面白い。
『五等分の花嫁』の場合、物語の軸になっているのは、成長とラブコメの2つで、
主人公の風太郎が、「常にテストで満点を取る学年主席の優等生」として五つ子姉妹に勉強を教える家庭教師として雇われ、五つ子姉妹のやる気を出させて、高校卒業まで導くということで、その過程で、主人公が五つ子姉妹から好意を抱かれるようになっていく。
というざっくりした展開があるのだが、これを読んでいて、以前内田樹の本で読んだ以下のような内容を連想して、教育における勉強が苦手という問題を解決させるために、あれこれ手を焼くというスタイルの作品を考えるときに、カウンセリングについての知識があると面白いことがかけそうだなと思ったりした。
セクハラ対策として、教師と二人きりで個室にいてはならない(二人だけの場合は必ず、入り口を開けておく)というようなコンプライアンスもあるとかないとか。
精神分析と教育、カウンセリングと教育というのはわりと有名なテーマなので必修です(批評オタク向け)。
分析的なカウンセリングでは必ず「転移」があり、患者は分析家にエロティックな関心を示す。
これは構造的なものであり、陽性転移が生じなければそもそも分析は成功しない。
フロイトは、このエロティックな固着を、分析家は構造的に生じる「症状」として冷静に受け止め、決して分析家個人に対する感情と誤認してはならないと注意を促している。
岩月教授がどのようなカウンセリングを行っていたかは分からないが、もしカウンセラーとしてそれなりの評価を得ていたのだとしたら、教授は分析のこの基本ルールをよくご存じだったはずである。
だから、クライアントがカウンセリングの後に、教授について自宅へ行ったりお風呂に入ったりベッドに入ったりしたがったとしても、それを純粋に自発的な感情とみなすことはむずかしい。
奇しくも『「おじさん」的思考』で私は「セクハラ」問題に関して、教師に対して学生が向けるエロティックな関心は構造的なものであるから、教師はそれを自分の性的魅力の効果であると勘違いしてはならないということをくどくどと説いていた。
スピリチュアル業界の男性、とくにヒーラーで女性クライエント複数と性的関係を持とうとする、または持っているパターンの話、これまで数名の女性から聞いたことがある。逆に聞いたことがないという人もいるので、温度差がある。「スピリチュアル #MeToo」で検索してもあまりヒットしないけど。 https://gyazo.com/1a064b2a690158e03c482264589fafeb
結果出た。開始1時間後からずっと「多いと思う」が46%だったが、朝にリツイートしたら逆転。「聞いたことがない」がトップに。最初に答えたのは業界に詳しい人で、リツイート後はすでに答えた人は答えられないので、比較的入り込んでいない人が多かったと解釈する。詳しいと見えてくる感じか。Norichika Horieさんが追加
『コミュニケーション社会学入門』にも載っていたような話題だった気がするが、ラカンの「他者の欲望を欲望する」話も関連させると、主人公に対して誰かが恋愛関係を望むようになったときに、それを他の姉妹も学習して、同じような欲望を抱いてしまうのではないかというようなことが、「五つ子姉妹」という設定のおかげで分かりやすい形で物語にできているんだなと読んでいて思った。 じゃあ、冒頭の話に戻って、「五つ子姉妹」が遺伝的に同じであっても環境によって、個性を獲得していくという物語にはどれくらいの説得力があるのだろうか。
上のラカンの話と似たようなもので、もし近くに自分とほとんど同じ見た目の人がいて、おおよそ同じ条件で過ごすということになったら、逆に違ったものを志向するということはありうるのかな。「他者の欲望を知って、違った自分を志向する」というような議論は、資本主義において、細かな差を互いに求めていくゲームに囚われがちだというような消費社会論の議論に似ていると思った。
教授法に関しては、知識のあるものが一方的に知識を与えるスタイルで、なおかつ生徒が家族関係にあり、お互いに同じような場所で学ぶというようなことがデフォルトという設定(たぶん)には、よく通俗本に書かれている「リビング学習」の話を思い出した。
知識の差が歴然な場合、教授において何がよいかというと、どう学べばいいかという全体像が分かっているために学習計画を立てやすいこと、学習計画が立てられるだけでテスト不安に対してもある程度の対策になるし、理解している状態がどういうことかが分かっていれば、生徒の間違いに対して、どのように修正するべきかという対策やフィードバックがしやすいということなどがあげられる。
一方で、自分ひとりで勉強するよりも効率よく学べると思えるならば、自分であれこれ学び方を試行錯誤するということをしなくなってしまうのではないか、特に本で学ぶことに対して、人が柔軟に教えるということはその人の能力に依存するという行為であり、この人でないとだめと思ってしまうならば、長期的に考えて、不利益になるのではないかというデメリットもあり、実際に物語の後半では他の家庭教師ではだめだというような展開がある。
平行世界ものの作品では、ちょっと違うような世界で自分と似たような人物が違った性格や趣向を抱いているのに出会って驚くというような話が多くある。またループもので量子力学の多世界解釈を援用した物語では、どのように選択すると結末が変わるかということを考えさせるものがある。ギャルゲーの世界では、どのように選択を重ねていけば、誰かと結ばれる世界にたどり着けるのかといった思考実験がなされる。そういった物語に対置して、「五つ子姉妹」という設定を考えてみると、むしろ「遺伝」の要素の大きさというものに関して興味が沸く。
五等分の花嫁において「五つ子姉妹」は基本的に見た目が同じであり、主人公は何度も姉妹の入れ替わりに騙されている。『美貌格差: 生まれつき不平等の経済学』というような本を読むと(手元にないのであれだけど)、見た目の利益というものに関して考えさせられる。かりに、自分のような人間が5人いたからといって、5人とも非モテエンドは普通にあり得るよなと思うし、自分に魅力があると思えるのは、それだけで、自己肯定感にプラスになるのではないかというようなことを思った。 自己肯定感に関しては『自尊感情の心理学』を参考に。三玖あたりが自分に自信がないというような展開があるので、そのあたりを考えてみるといいかもしれない。 大澤真幸の『なぜ若者は保守化するのか――反転する現実と願望』への書評のログを読んで、 山田昌弘をちゃんと読んだことないけど『希望格差社会』の希望格差の話について考えた方がいいかもと思った。 アニメの恋愛もので三角関係からの負けヒロイン…っていう流れは王道だけど、それを観る側が恋愛で負ける側になるのが常態化してる視聴者の場合、その負けヒロインの気持ちに嘘っぽさを感じないんかな?まあ、初恋といったシチュエーションなら深刻に思い詰めるとか分からないでもないけど。
『五等分の花嫁』のばあいは、物語の冒頭から一人を選んで結婚式を挙げるという伏線を張っているので、そのあとにぶち壊しにならなければ(なるかもだけど)、ポリモアリーではなく、五つ子姉妹の誰か一人と結婚することになるのかもだけど、現実的に誰を選んでもルッキズムの観点では差がない(それこそ自分好みの見た目に変えてもらえばいいのだから)。逆に、見た目にこそアイデンティティが宿るからといって、例えば、でかリボンがついているから可愛い、好きって思ったら、「でかリボン」とセットの見た目を評価しているのであって、作品内の理屈では五つ子姉妹なら誰にでも変装できるので、交換可能性があると考えられる。
恋愛において経済的合理性を重視するならば、利他的で自律的な相手を選べばいいし、相手を依存させたいと思うなら、自律的でない相手を選べばいい。五つ子姉妹の誰から一人を選ぶという選択があったときに、そういう行動の傾向の有無を評価せざるをえない。ここがいわゆるヒロイン選択問題と少し違っていて面白い。性格というのは固定的なものでなく、可変的なものなので、仮に、主人公が特定の行動をする人が好きな傾向にあったとしたら、そこに当てはまる行動を積み重ねてきたヒロインに福音が与えられるのだが、学習の積み重ねがすぐに覆らない以上、他の姉妹がそれに気づいて真似して、状況を覆すということも難しい。
選ばれないことの苦しみっていうのはアニメでもよくテーマになる(恋愛において負けヒロインがでるetc)けど、選ばれることの苦しみというのもまた興味深いテーマだと思った。禁書目録の上条とかそういう感じだよな。セカイ系との関連もありそう。プロの仕事系の作品もそうだよな。
通常、ラブコメにおける
単純に主人公サイドからしたら、
後半で、主人公が五つ子姉妹の家庭教師から外されるあたりで、各姉妹の得意な科目を互いに教えるといういわゆるアクティブ・ラーニング的な教授法が導入される。
そもそも家庭教師とはなんなんだろうか。現実にも、大学生が給料をもらって、小中高の生徒に家庭教師をするというようなことがあるけれど、そのときにどうして教えるという営みが成立するかというと、五等分の花嫁の場合は、主人公に対して雇用契約を結ぶことで、つまり現金を与える代わりに教えるということを実現しており、当人はそういう時間を過ごすことが、他のバイトをするよりも有意義な時間を過ごせると判断したから、そういうことが可能だったという説得力を与えているが、知識差が大きい人同士で教え合うということが成立し得ないということもまた説得力があるような物語になっていて、彼らの学校では少なくともALのようなものが導入されていない前提でないとなかなか整合性がとれないような物語になっているように思えた。
アクティブ・ラーニングに関して難しいところは、教える側に、その内容に関して詳しい、もしくは他人に話すことに関して意欲がある必要があるというところで、たとえ、ジグソー法で、課題を分割してドメイン知識を各自で得たからといって、課題によっては、そういう学び方をするよりも一人で学んだ方が効率がよいという風に思う人が必ず一定数でるにもかかわらず、授業のデザインによって、そういう人の行動に制約を設けないといけないというところだ。
アクティブ・ラーニングで難しいところは、授業設計の部分で、まず同質性の高い集団に分けるという部分でも、そもそも大学のように選別された状態でALをやるのと違い、高校以下ではわりと能力的にもバラけるところに、課題を出して、それに対してフリーライダーを出さないように様々な工夫をしていく。
五つ子姉妹のような遺伝的に同質性の高い集団であっても、実際のところ関心が大きく違うということはあるし、学力の違いのようなものだってある。納得のいくような課題設定というのは可能なのかという部分に関してけっこう疑問がある。
例えば中学の数学でいくと、自分の場合は、『中・高一貫の数学 (中学数式編)』のような本質的な理解を目指す授業が受けたかったし、空いた時間は教えることをわりと強いられたけれども、結局のところ自分も理解していないことを自覚するだけで、どうやったら理解できるかなんてことは高校卒業するあたりまでいまいち分からなかった。理解していないことを自覚するだけなら、例えば、解けない問題を解けばいいだけであって、わざわざ他人を必要とするのかという部分に根本的な疑問を覚える。
例えば、教員だって理解していないことがたくさんあるだろう。これまで僕が出会ってきた教員の大半は期待レベルよりも低い授業をしていたから、理解不足な側面があると自覚している人もいるだろう。ALの有効性を信じているならば、自分の理解不足を補うためにALで学ぼうというふうに思う人がたくさん出てもおかしくない。
自分がオンライン勉強会で卒論を書いていたり、教育をまなぶ会を立ち上げたり、大学のLINEコミュニティへDiscordを導入しようとしているのはこのあたりの話に疑問を持っていることが理由のひとつであって、仮に教えることが自分の利益になると考えているならば、ALの生涯学習への導入であったり、自分の学習へALを組み込んだりする方向へ発想を進めていかなければ、整合性がとれないはず。
キリスト教で進化論と聖書の整合性について議論になるけど、日本の戦時中は天皇と進化論の整合性について議論にならなかったみたいな話があるけれど、信仰ならば、それが信仰であるということを立証することには意義があるかなと思って。教育を学ぶ会のようなものが盛り上がらないとしたら、たとえば、主催者が魅力がないから、企画を何度も起こしていなから、オープンだから(教員以外も含んでいるから)、メンバー集めが下手だから、などといった条件があって、そういった状態ではALのようなものが成立しにくいということが推測できるというふうに現段階では思ってる。そもそも教室内で、うまくセッティングした場所でしかALが成立しないのであれば、社内研修などにはどういうふうに応用していくべきなのか。
恋愛論が教育に関係あるのかというと、例えば『弱キャラ友崎くん』なんかを読むと実感できるのだけれど、コミュニケーション能力を高めたり、誰かと親しくなるための行動を積み重ねることって、基本的に学習の積み重ねで、その過程を考察するというのも「学習」という営みがどのようなものなのかを考えるのにつながるので。 こういう下調べを書いていると、いつも思うのが、下調べで終わってしまう部分のあまりに多いこと。なんかこれ好きな人に告白して振られ続けるのと似てるとか思って悲しくなってきた。
いや、同じ人には告白し直さないけど。どうせ相手の嗜好は固定的だと思っているので、よほど自分の属性が変わらない限り、何度トライしようが同じ結末だと思うんですよね。これなんかも、上で考えたことと似たような問題で、やれば結末を制御できるという自己効力感のようなものが、繰り返しの試行を支えているのであって、そもそも結末が変わらないと信じているならば、試行回数を増やしたりはしないので。これってわりと学習において重要なことだったりしますよね。
飯田泰之の「ソーシャル・サイエンス・ハック!」の「機会の平等ってそんな簡単な話じゃないんです」辺りの議論かな。「人のやらないことをやろう」という話を読むと、いつもこの記事を思い出す。リターンが期待できないゲームを繰り返せる人なら確かに「人がやらないこと」に懸ける価値があると思う。
科学において、実証しやすいことばかりが論文になって、結果として実証しやすいことが「客観的な議論」だとみなされて、客観性と目の前のあり方とが乖離してしまうというような話があるけれど、こういう考察なども大半は頭の中で面白くなりそうなどと思うだけで、消えていってしまってもったいないと思うので、古谷 利裕先生のブログなどを参考に、こういった雑記も公開していったほうがいいし、それって個性だよねって思った。 逆に個性なんてものは、その程度でしかないという風に思う。どんどんサイクルをまわしていくなかで分化していくもので、自分の頭の中でそれを考えているだけでは、なんらかの固着からは免れ得ないと思うし、個性だと思っていて、コモディティであり、似たり寄ったりの要素があると思う。
手元にないけど、『暴走する能力主義 』であげられるような、才能を評価することの難しさ(つまりは、だれもかれも似てみえる)という問題を考えるのに、『五等分の花嫁』というのは題材として面白いのではないか。
Twitterでたまに相互フォローの外から、頻繁にふぁぼってくるアカウントとか、いつもフォローしてきて外してを繰り返すアカウントに対して、自動化しているから、そういう振る舞いをするのであって、例えば、前者ならそれに対して、もしかすると自分のツイートの内容に対して興味を持ってくれているのではないかと勘違いしたり、それを確かめるために他にどんなツイートをファボしてるかを確認してランダム性を確認できて、じつは「興味をもっているふり」をするために、自動化している(そしてそれを分かっていてやっている)。
そういうあたかも「あなたのことを大切にしています」という振る舞いを期待してしまうような心の動きを承認欲求などと呼ぶのだけれど、そういう欲求に動かされやすいのも学校教育における生徒のあり方として考えられることで、誰かよりも自分を気にかけてほしいとか、自分のことを気にしてもらえていないとか、もっと気にしてほしいとか、そういった問題に対して教師がどういう風に振る舞うべきなのかということは、教師における演劇論として捉えることができるのではないか。
『五等分の花嫁』では極端な形でこの問題が顕現していてかなり面白い。恋愛関係まで踏み込んでしまっているので、他の姉妹よりも気にかけてほしいシグナルを出したり、駆け引きが始まったりする。
主人公と五つ子姉妹の雇用者との関係が、ラブコメ駆動に使われていて、いわゆる課題に対する困難を与える役目を与えているのを読んでいて、こいつ医者なのにこんな態度で家庭教師雇うのか(大丈夫か?)ということは何度も思った。この医者の教育観がやばすぎる。でも、こういうやばさを言語化して批判する必要が意外とあるのかもしれない。『暗殺教室』でも理事長に対して似たようなやばさを感じたけれど、あれは教育の観点で極端なキャラ付けをしているのが視聴者と共有されているわけで、でも今回の例はそういうじゃないから、もっとそのあたり分析したほうがいいのかな?まあ、自分の親なんかも似たような教育観をもってるので、けっこう丁寧に議論しないと分かんないかもだけど。
隠さなければならない秘密というのも物語を駆動する力になるけれども、例えば教え合うというような状況において、この人がどんな興味や関心をもっているのかを知っているのと知らないのとでは全くパフォーマンスが変わってくると思っていて、Scrapboxなどに思っていることをどんどんアウトプットして情報の非対称性を減らしていったほうがALではメリットになると思うけれど、『五等分の花嫁』を読んでいると、相手が情報を開示する気がない状況で教えるということの困難さが感じられた。
完成された文章しか公開しないのでなくて、どうやったら相手の関心のある議論をしてあげられるかという利他的な観点にたてば、逆に自分自身の興味関心を出していくことで、それを真似してもらうというような方向を目指すしかなくて、ちょっとしかアウトプットできない人ならば、なおさら、そのちょっとをどのように把握するか。たとえ相手が落第点、赤点ていどにしか理解していないという情報を開示することを拒んだとして、もしそのことを知らないで教えるのと、知って教えるのとでパフォーマンスが違うことは明らかである。
思ったことを言葉にすると排除される空間というのが学校であるという側面があって、もちろん社会において、特定の職業では特定の倫理があり、それを演じることを求められるために、学校においても、その枠を越えないために、アウトプットを制限するというのは正しい戦略であって、実際問題、SNSのアカウントを消せみたいな書籍もある。
どうやって信頼を獲得していくかという過程について