数学が得意だが国語ができない学生
公開日:2026.03.25,最終更新日:2026.03.30
SIG-FINの飲み会で他の教員(大阪公立大学の中川先生)と喋っていた時,「数学が得意で論理がわかるはずなのに,論文がかけない学生をどう指導して良いか困る.そもそも何故国語ができないのだろう?」という話題が出た.僕が理由を言語化して話したところ,「どこかに文章として書いておいて」と言われたので書いておく.
ちなみに関連する記事として次がある:
広義の『国語力』の訓練について
補足:数学が得意だが国語ができない学生
主張の要約
金澤の意見としては,次のようになる.まず読解方法を2パターン定義する:
国語での読解:普通の「国語」では,相手の主張を理解することに興味がある.つまり,相手が主張する「命題の真偽」はどうでも良く,「相手はどういう命題を主張しているか」を抜き出して,その主張を読了後も頭に残すことが目的である.命題の真偽には一切同意する必要はなく,相手の議論がたとえ誤っていても,その「誤り」をそのまま一旦受け入れて/なぞって,「相手の主張の流れ」をそのまま把握する.この読み方を「国語での読解」と呼ぶことにしよう.
再発見型の読解:「文章で証明された事実命題 (fact) に触発 (inspire) されて,その事実の解釈/素晴らしさを,自分で再発見 (rediscovery) する」という読み方を「再発見型の読解」と呼ぶことにする.数学をはじめとする理学書は,本質的には「再発見型の読解」を多かれ少なかれ求めている.そして,この読解方法では「著者の主張がどこに書かれているか読み取ろう」とする努力は本質的には不要であることに注意しよう.著者と同一の解釈を自分の力だけで「再発見」するのだから.
以上の読解方法の定義を踏まえると,金澤の主張(仮説/雑感)は次のようになる:
「数学ができて国語ができない学生」とは,「国語での読解」ではなく,「再発見型の読解」をしている.
「再発見型の読解」を理学書で訓練し続けた結果,「それが典型的な文章読解の方法だ」と勘違いして過学習すると,普通の意味での「国語の読解」ができなくなる.
なぜなら普通の文章では,事実命題の真偽はそこまでrigidに議論されていないため(※数学と比較しています),そこで論証されている事実命題に触発されて自分で解釈を考えても,それは著者の解釈と一致する必然性はないから.
これが1つの典型パターンではないかと思う.以下,この主張の理由を述べる.ただし,ここで想定される理学書はたとえば数学/物理系などである.また「国語の読解」については,大学入試的な文章を想定している.
論点1:理学書は本質的に「再発見型の読解」と相性が良い
あえて強く言い切ると,理学書は本質的に「再発見型の読解」しかできない.事実を整理して列挙するのであり,特に「定義→命題→証明」というスタイルだと(※物理は必ずしもこのスタイルではないが,「日常的な文章」よりはそちら側なので,話の単純化としてそう扱います),「その整理の素晴らしさ」を自分で再発見できる人しか習熟できない.
たとえば,数学において「定義」がなぜそのように定式化されているかを突き詰めると,究極的には,その後に展開される主要な定理や理論構造を成立させるために導入されていることがしばしばある(常にとは言わないが).教科書を最後まで読んで主要命題を全部把握しないと,著者が言いたい主張がわからないし,ほとんどの著者は「なぜその定義にしたか?」についてはどこにも明示的には理由を述べない.「実数の定義」は連続性を証明できるように構成されているし,ルベーグ積分も収束性の性質が良いことを示せるからこそ,ああいう風に定義されている.いきなり定義だけ見て「納得する」という類のものではなく,最終結果までを一通り見て,自分で理由を「再発見」して納得する必要がある.つまり,一旦は定義を暫定でも良いので受け入れ,全部読み終え,証明された定理を把握して,「全体像を踏まえて最初の定義を自分で吟味する(=解釈を再発見する)」のが典型的な読み方だと思う.これは僕の基準では「再発見型の読解」である.
物理も同様であり,物理法則は究極的には実験結果を踏まえて,そこから整合性を考えて発見される.物理法則に理由はなく,発見された数々の実験事実を,数式を用いて言葉として圧縮して提示しているだけである.例えば「力学の運動方程式」は別に直観的な方程式ではないし,解釈は自明でない.単に過去の実験結果を踏まえて整理すると「そうなった」だけであり,それに納得するためには,運動方程式を個別具体的な状況で解いて,実験/経験と一致することを自分で吟味する必要がある.教科書は吟味する(=解釈を再発見する)ために解くべき問題を,淡々と提示している.究極的には,納得するために必要なのは「自分で再発見する努力」であり,教科書はその補佐をしているだけである.
論点2:理学書は事実命題の立証が容易なものが多く,解釈の普遍性が実現しやすい
理学書は誰が読んでも,「しっかり読み解けば本質的にはほとんど同一の解釈ができる」という普遍性 (universality) が実際的にはある程度あるように思う(程度問題であるという批判はさておき,これはエッセイなので厳密なことまでケアした議論はしていない).こういう普遍性は理学書特有であり,「再発見型の読解」が成立するのは理学書だからだと思う.理学書以外では,「事実命題に対する解釈」は個人に依存するし,そもそも事実命題の真偽の論証が理学書よりもはるかに曖昧なので,「再発見型の読解」がそもそも成立しない.
ここで強調したいのは,理学書では「事実命題が全て真であること」を前提に読解するのに対して,通常の「国語の読解」では主張される命題の真偽は本質的に無関係であり,たとえ命題が偽であっても,「それを踏まえた国語の読解」を求めていることだ.極端な例を挙げると,すべての文に論理的誤りがある文章があったとして,その文章に対して「国語の読解」を適用することは原理的には可能である.つまり,相手がどのように誤って思考したかも含めて,そのまま「思考過程を抜き出してきて」,相手の主張を整理すれば良い.つまり「読解」という行為は,主張される命題の真偽と一切無関係に成立する.
極端な例:論理的にナンセンスな文章でも「国語の読解」は成立しうる
「事実命題としてはナンセンスな文章でも読解練習はできる」と極端な説明を行えば,国語ができない理系学生でも,僕が何を言いたいかわかるかもしれない.(ちなみに他の記事 広義の『国語力』の訓練について で書いているが,金澤が学生時代に天声人語の読解練習をしたのは,理学系文章と非常に異なるからである.)私は極端な例を通じて説明することが好きである.極端な例として,次の文を読んでみよう:
文:本論文では1+1=3と定義しており,つまり1+1=4であり,1+1=5が成立する.
ここで下線部について質問があり,
Q. 下線部で主張する「1+1=5」が成立する理由を説明してください.
と問題に出たとする.この極端な例のポイントは,「読解」が命題の真偽判定とは別の営みとして成立しうることを示す点にある.この問題の模範解答は「筆者は1+1=3と定義しており,1+1=4であり,1+1=5になるから」になるだろう.ここでこの解答は「抜き出し」によって構成されているが,原文から表現を抜き出して解答を作ることは本質である.なぜなら,全てのロジックが誤っているのだから,抜き出すことで「誤った思考をそのままトレースする」しか,解答方法がない.言い換えると,理由説明の問題というのは「著者の思考過程をトレースして,概要を説明してください」という問題であり,究極的には著者の思考過程が誤っているなら,その誤った思考過程をそのままトレースすることを求めている.
誤解を恐れずに言い切ってみよう.国語の読解が求めることは,本質的には命題の真偽判定を吟味するような論理力ではない.むしろ必要なのは,著者の思考過程をその順序のままトレースし,それに根気よく付き合う努力である.これを「論理」という単語で形容する人はいるが,少なくとも理数系が想像する「論理」という単語とは別物であることを意識しよう.理数系でしばしば想定されるのは命題の真偽判定や整合性の吟味であるが,国語の読解にそのような「数学的論理性」が第一義的に求められているわけではない.
当然,上の文章は非常に極端であり,国語の試験で出る文章はこのような酷いものではない.しかし国語の試験に出る文章は理数系の人間からすると色々と曖昧であり,筆者の解釈と読者の解釈が一致する保証がない.究極的には「抜き出し」によって解答を構成するしかないのは,抜き出す以外に(見かけ上だけでも)表現の同一性を保つ方法がないと思う.
理学書の読み方は通常の「国語の読解」方法と異なる
逆に「国語ができるのに理学書が読めない学生」は,理学書の読み方が間違っているのだろうか.つまり,理学書は筆者の解釈が書かれていると勘違いしており,その解釈が明示的に書かれていないために困るのかもしれない.もしそうならその読み方は間違いであり,提示された事実から先人たちが考えた「解釈」を自分で「再発見」する必要がある.再発見を行うためには試行錯誤が本質的に必要であり,手を動かして多数の問題を自分で解く必要がある.そして再発見するために十分なパズルのピース(試行錯誤するためのヒント=練習問題)を提示するのが,理学系での教科書である.
少なくとも物理だと大量の演習問題を解いて,その解いた結果を自分で吟味して,納得するための時間を使う必要がある.ちなみに物理では昔は「授業に出る学生より,自分で授業をサボって自主ゼミしたり,本を読んでいる学生の方が成績が良い」と言われていたのだが,それはそういう事情によると思う.教員が述べている解釈をいちいち聞いている暇があれば,自分で手を動かして問題を解いて,自分で「正しい解釈を再発見」した方が良いという立場である.実際,数学/物理が得意な学生は,教科書で示された命題を見たら,それを踏まえてノートの上で数式を自分で弄って考えるのが普通であり,かならずしも文章の字面を踏まえて解釈しているわけではないし,そもそも解釈が本に書かれているとは限らない.自分で解釈を再発見する必要が(程度問題とは言え)ある.
ちなみに今の大学では授業中に解釈をたくさん話す先生が増えたのではないかと思う.理学書も解釈を丁寧に書いている本が増えているように思う.その意味では上の話は極端な単純化が入った説明ではある.ただ,多かれ少なかれ,理学書の読解には「解釈の再発見」が必要であるという事情は変わらないと思う.
最後にTwitterの反応を見て思った補足を次のページに書いておく:
補足:数学が得意だが国語ができない学生
ライティングの本の宣伝
ちなみに最近,理系の論文ライティングの本を書きました
Nature流ライティング技術
この本ははっきり言って,「広い意味での国語」の本です.文章はどのように書くべきかを議論していますが,テンプレート主義に拘っていて,国語が苦手な学生でも「文章の構造」が明示的にわかるように書いたつもりです.僕の持論としては,ライティングになれると他人の文章構造もわかるようになって,読解能力もあがると考えています.ご参考までによろしくお願いします...よかったら買ってね!(ダイレクトマーケティング)