「〜とは何か」とは
#哲学 #問いかけ
「これはなに?」
子どもからもよく聞かれる質問
車を指して、「これなに?」
「車だよ、道路を走っているんだよ」
「道路ってなに?」「走るってなに?」
無限ループ
どのレベル感で質問をしているのかがわからないから、答えようが無い。
精神を病むようななぜなぜ分析
しかし、よく考えてみると自分もこういう漠然とした疑問が唐突に出てくることがある
この不思議で曖昧な疑問について深掘りしようと思う
きっかけ
青色本から。
@moroQma: @jinrui_nikki 「~とは何か?」という若干ミスリーディングな問いも、哲学における「最悪の悪問」
この問いは曖昧な気分や心理的不快感を示す発言であり、子供が発する「なぜ?」と似ている
この「なぜ?」も心理的不快感の表現であり、必ずしも原因や理由を求めているわけではない
ヴィトゲンシュタイン『青色本』
https://pbs.twimg.com/media/FeDF1oiUUAAY_Wv.jpg
「~とは何か?」という若干ミスリーディングな問いは、哲学における「最悪の悪問」とも言われる
この問いは、実は話者からすると意味はなく曖昧な気分や心理的不快感を示しているとのこと
子供が発する「なぜ?」との関連性
表面上の言葉を鵜呑みにして質問に答えても、本人の心理的不快感は払拭されない場合がある
「なぜ?」の背景に心理的不快感が含まれるのであれば、対話を通じて不快感を解きほぐすことを意識すると良い
原因や理由を説明することが正解とは限らない
koushisa.icon
どうやら理解できない心理的不快感を払拭するために発せされる言葉らしい
動物的な本能による無意識から発せされる反射的なものか?
〜とは何か?という曖昧な問いに対するただ一つの答えなどはない
答えがないものを切り捨てている感じが気持ち悪い
これを読んで思い出したことで学生時分にゼミの司会をしてた時、発表に対する問いで
「~って何ですか」を禁じた。これはサボってるのが丸見え。聞くなら「自分の解釈はこう。それとの差は何か」って問え、と。
@chpGgjwlZXACxNX: @jinrui_nikki 前提なしに問われた場合、〜ということですか?と聞き返すのが普通です。
質問が悪い、とだけ言って相手を責めるようではまだまだです。対話の中で相手の疑問を解決しましょうよ。
それに、前提として、普段意識しないようなことを考えてみる機会を楽しむものだと思うので、言いがかりのような気も💦
@jinrui_nikki: チコちゃんの「なんで?」という問い。いつ聞いても、あれは「最悪の悪問」だと思います。
「なぜ」という理由・原因を究明する問いは、「どのレベルの説明に帰着させるか」を想定しておかなければ答えようがないからです。逆に言えば、説明レベルの設定のしかたによって、何通りもの答えがありえます
メタファや結論ファーストの話し方は、人によっては逆に混乱を招く
なるほどkoushisa.icon
既存概念と比較をすることで、エピソード記憶が呼び覚ませる
自身の経験との"差"により新しい概念を認識できるのか
確かにプログラミングの概念の説明に現実世界のメタファーがよく用られるな
未知の概念を使えるようにするには、その概念についてイメージを頭に思い浮かべられるようにする必要がある。そのイメージがメンタルモデル
語は私たちが与えた意味を持つ
言葉によるコミュニケーションは一般的不協和音という性質があり、受け手により解釈が変わる
そもそも人間のコミュニケーションに100%の精度はない
1つの事実に対して解釈は複数生まれる
脳を介在する限りバイアスはまぬがれない
普段から、言葉の持つアフォーダンスや類似性により確率的なパターンマッチングで意思疎通しているのだろう
受け手の経験や知識を探り、類似するものを提示し、その差分を話すのが未知に対しては有益
まとめ
「〜とは何か」という問いが生まれた場合
まずは聞き手の心理を理解する
何もわからないことに対する違和感なのか、なにか意図があっての言葉なのか
相手の知識レベルに合わせ、定義の範囲を明確に、小さくして着地点を見出す
関連や比較などの相対的な理解に頼る
語の意味を聞き手の知っている既存概念と近しいものを探す
類似性を与える
相手の右脳と左脳の両方を動かす
コンテクストと形を適合させる
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https://gyazo.com/ab1bf01933df9fb7d63c76f514c5d338
問題の解決を目指すというよりもその問題の前提に含まれる誤謬や混乱を解きほぐし、より適切な形に問い直す、あるいは問い自体を解消させる
必要なものは言葉による解決ではなく、ある種の呪いを解くための治療である
ウィトゲンシュタインの解釈ではこれを治療的哲学と呼んでいる