相手から自分に対する悪意を感じたとき
自分と相手との関係の中で、相手を理性的(reasonable)でない人間だと感じたならば、自分の振る舞いが相手をそのように振る舞わせていることをよく検討した方がいい。 ところで聴くと聞くの漢字の違いによる説明が、個人的に好かない。
特に、「心」があるからとか漢字の成り立ちがどうのとかはその実践/プラクシスにどうでもいいし、誰かのその時だけの解釈や意味づけに過ぎない
これを突き詰めていくと、その語を用いるか用いないか(ここでは「聞く」ではなく「聴く」を使うべきみたいな圧)で友敵理論な闘争になる。 これはテキストチャット時代ならではの課題かもしれない
口頭ではあまり取り沙汰されづらく、漢字の成り立ち論法は、「“人”という字は——」よろしく怪しげな自己啓発本の中か怪しげな自己啓発セミナーのホワイトボードくらいにしか登場しなかったように思うけれど、日常的な書き言葉の中にそれが表れ始めると、その字面のみを持ってファンクショナリズム的に「心」を個人に想定し相手の理性を疑い出すことになる。 上は「きくこと」に関してだが「たずねる」、つまり質問する/問いかける/質すという行為に関しては、「聴」vs.「聞」といった漢字ではなくて、「オープンクエスチョン」と「クローズドクエスチョン」という区別を取り上げてみたい。
しばしば見かけるのは、前者はyes/noで答えられないようなタイプの質問で、後者はyes/noで答えられる質問という説明。
Aというシーンではオープンを、Bというシーンではクローズドをとのリスト化は、相手や自分をやはり西洋伝統的な個人に閉じ込める。
探索的/生成的な、「たずね」の行為が「“オープン”な振る舞いだ」と私は思う。
それはクイズのような正解当てではなく、また、自身の解釈を押し付けて言質をとろうとするかのような脅迫めいたものでもなく。
相手と自分とで(あるいは場合によってはそれ以上の何人かで)、その心をどのような言葉で意味づけることが平和だろうかと、探索したり生成したりする、そのための行為を「オープン」だと呼びたいということ。
だから、yes/noで答えられる形式であろうとそうでなかろうと、「オープンクエスチョン」というものはあるし、そうでない暴力的な「たずね」をこそ、「クローズドクエスチョン」と呼んでもいいのではないか。
積極的傾聴(PCAの中核の1つ)という実践/プラクシスは、その字に「心」という漢字が含まれるかどうかで説明したところで、それは個人の徳の範疇を出ず——それはそれで別のケースにおいては有用なことはあるかもしれないが——、公共的な理由(それは、私とあなたという小さな公共の、reason = 理性)へと昇華されないのではないか。 相手という入れ物を想定してその中に「心」を探すのではなくて、相手と自分との間に、人間的な「心」を両者の関係の中から探索的/生成的に浮かび上がらせようとする試みの断片的なシーンに、積極的傾聴が共同作業として起こるのだと考える。それは「オープンクエスチョン」に努める行為も同じだと思います。