『シラバス論』
https://gyazo.com/5d6ed0708b3fa940890bd32574b37e64 amazon 『シラバス論: 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』
晶文社, 2019.
「学校教育にとってキャリア教育はくだらない」p.340
キャリア教育とは、学校教育体系における職業教育のこと。学校教育に社会接続の流れを入れていけ、という流れ。
接続される「社会」の側にいる私たち社会人/組織人として、高等教育や学校教育の意義をきちんと知っておく必要は大いにある。terang.icon
そんなわけで、
個人的にきちんと読むのはこれで3回目terang.icon
なお何度読んでも難しい、わからないterang.icon
じっくり読書会中、参加者同士の反応が連鎖した瞬間があって、複数人で読むことの醍醐味がダイナミックに現れた who-red.icon 「あとがきにかえて」は、なんていうか…他の章と比べて文章が瑞々しい感じがした。
who-lightgreen.icon 瑞々しい感覚、わかる。まるで…読んでいる自分が学生になったみたいな。
who-blue.icon …あ、そうか。これってもしかして、(本文にある)研究と教育とが一致する様を、著者が実践して見せてくれているのでは?
索引がすごい
例えば
https://gyazo.com/ba8ff371438869398c3362b3b502881d https://gyazo.com/b06f24892e0024c55cfb2bdce1504ff8 https://gyazo.com/2c7d9945790f6add9b775665f9b517bf
テッド・ネルソンとは似ているようでどこが違う。病的なハイパーではない、という点で。新しい。あるいはハイブリッドな感じ。 学校教育的に体系として頭からお行儀よく読まないことも想定されている、ここから著者の優しさがにじむ。
著者が本書を書くに至った4つの動機
(「まえがきにかえて」より)
1. 教員のシラバスへの関心が薄いから
2. 意欲ではなく知識の教育を再検討するため
3. 臨教審の言う学校教育が、成人教育と同じように消費の対象となり(生涯学習化)、子どもを差別しているから 4. ストック情報をもつ学ぶ主体を形成できる契機が情報化社会においてどこにもなくなっており、シラバスの重力が、学びの主体を形成するから 教養教育とリベラルアーツp.49-
その衝撃から大学は大学教育のあり方を見直した
大学の学問や知識は社会にとって進歩にとってどのように有用でありうるのか、そのことを教育においておこなうべきだという議論が出てきた
対して、
言い換えると、
社会が提起する課題に答える教養教育
この一般教育(ジェネラルエデュケーション)としての教養教育を大学で最初に始めたのがデューイ 平和と民主主義のためのコースだった
教養教育は「概論」人材で焦点を持ち得ないという批判
人材は社会科学系内部の専門的な体系性を否定しないと〈特色〉を形成できない
〈概論〉は、それを担当する教員はその学部・学科を研究者として代表する教員だった
若手教員では専門的過ぎて概論を論じるだけの能力がなかったから 〈概論〉科目は専門を脱する力、専門を大所高所から論じる力がないと担えない
〈専門〉を脱するのは専門の頂点(End)に立った研究者以外には無理
「(...)『読むこと』は自分の解釈を示すこと(...)」と川添信介 p.162- サンデルの白熱教室も、前半の講義と結びつかない討論になっており、発言している学生を「白熱」と呼んでしまっている。 そもそも古典の学説はそれ自体が討論を蔵したもの。(...)勉強している学生ほどあの「白熱教室」では発言しない。
「白熱」すべきなのは、自分の意見を言うことへの白熱ではなく、テキスト自体が有する白熱に白熱することでしかない。
けれど近年スマホの世界と、パソコン(ワープロ)の世界が分かれてきた
who.icon「Cosense.iconで書いているとき、スマホだと今まさに書いている箇所の前後の、自分の目に映る空間が小さいため、つい話題が脱線していきがち。PCならば、元々なんの話題で書いていたのかに戻ってきやすい感覚がある。」
脱線は元気の証とはいえ、全体を見ての脱線と、点だけを見ての脱線では質感が違うようにも思われる。 なぜ「たとえば」話はそうなるのか。
一つの結論(命題)の周辺の話題をかき集めることによって、一つの結論(命題)自体は何も深化しはしないからです。結論先にありきの傍証ばかりの議論になる。退屈極まりない授業になる。だからワークショップ型でごまかすことにもなるのです。自分のトークだけでは埋められない軽薄さを学生のランダムなおしゃべりを使って埋めるわけです。誰も聞いていない授業をやるよりも、起きて〝活発に〟議論されている授業の方がまだましだろう、と言いながら。 しかし、命題はそれ自体で歴史(起源=根拠(アルケー))と内容を有しています。もっとも大学的な科目でもある哲学などは概念的な命題を追っているかのように見えて、ギリシャ語の語源までそれを辿る行程でしかない場合も多々あります。... pp.324f. 本間正人「四〇代、五〇代、六〇代からの学びを本当に面白がる人がいたっていいじゃないか」 著者「一〇代のうちに勉強しておかないと、三〇代、四〇代からでは手遅れ」 学校は監獄で退屈だから本が読める
退屈だから可能
著者「e-Learning中に横に美女が裸になっていても、ひたすら集中し続けられるの?」
殺人罪に近い拘束なほど閉じ込めないとできない
この強制的拘束性が、家庭の文化格差を相対的に解消する契機になる
本居宣長までは、『古事記』は大切にされず、『日本書紀』を誰もが大事にしてきた。それは『日本書紀』の方が、はるかに立派な漢文で書かれていたから。 〝学問にかまける〟とは?
漢文でできあがった学問、つまり、外来の学問にかまけること
小林秀雄「『源氏物語』が女性の手になったという事には理由がある」「その頃、知識、学問は男のものだった(...)。しかもみな漢文だった。漢文の学問ばかりやっていると、どうして人間は人間の機微のわからぬ馬鹿になるのかと、女はみな考えた」。つまり「学識があることと大和魂を持つこととは違う(...)むしろ反対のことなのです。今日の言葉で言うと、生きた知恵、常識を持つことが、大和魂があるということ」。 who.iconこの箇所、漢文を、ビジネスカタカナ語に置き換えて読むとすごく意味が伝わってくる! 学校の〝先生〟の〈真理〉は、『古事記』の作者が国文の文体を苦心して作り上げたように解きほぐされねばならないと、私は思う。漢字文化のようにこわばったものは、本来の〈真理〉でもなければ〈権力〉でもないだろう。漢文に対する格闘の結果が『古事記』であるとすれば、研究の〈真理〉を解きほぐす〝国文〟こそが〈コマシラバス〉でなければならない。〈コマシラバス〉は、研究の〈真理〉の大和心なのである。pp.395f.
研究と教育
機能 function と実体 substance
果て(ペラス)=目的(テロス)と起源/始まり(アルケー) 「一がたとえば百番目の一として限界であるとともに、百全体のエレメントでもある」ように「全体」でもある p.398
親鸞はこの2つの往還の話をしている、と吉本隆明が解説している。p.404 往きは自分のすべきことのために進めばいい
還りは全部、助ける。「かわいそうだから」とかそう言うのでなく助ける
この往還を可能にしているものが知識の自由。
この自由を、教員も学生も対等に共有することができる。
それはお金と関係なしに(牛丼一杯を我慢すれば、ノウハウ本よりも安価な岩波文庫が手に入る、図書館は無料)、学生は〝先生〟を純粋に尊敬することができるし、純粋に批判することもできる。