『シラバス論』
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『シラバス論: 大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』
芦田宏直 著
晶文社, 2019.
我々ワークショップ設計所が、学校教育においてのワークショップを基本的には推奨しない理由が書かれている。
大綱化以降のハイパーメリトクラシー偏重は文化的再生産を強化するだけ
「学校教育にとってキャリア教育はくだらない」p.340
キャリア教育とは、学校教育体系における職業教育のこと。学校教育に社会接続の流れを入れていけ、という流れ。
接続される「社会」の側にいる私たち社会人/組織人として、高等教育や学校教育の意義をきちんと知っておく必要は大いにある。terang.icon
そんなわけで、
じっくり読書会のテーマ本として第7期(2024.4-6月)に取り上げた案内
個人的にきちんと読むのはこれで3回目terang.icon
なお何度読んでも難しい、わからないterang.icon
じっくり読書会中、参加者同士の反応が連鎖した瞬間があって、複数人で読むことの醍醐味がダイナミックに現れた
who-red.icon 「あとがきにかえて」は、なんていうか…他の章と比べて文章が瑞々しい感じがした。
who-lightgreen.icon 瑞々しい感覚、わかる。まるで…読んでいる自分が学生になったみたいな。
who-blue.icon …あ、そうか。これってもしかして、(本文にある)研究と教育とが一致する様を、著者が実践して見せてくれているのでは?
索引がすごい
例えば
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前著『努力する人間になってはいけない』もすごかった
「読む順序(=Order, 秩序)が大事」は、厳密にナンバリングされた必修八〇単位とアナロジーのよう
でも本書の索引は文化性のあるハイパーリンク的
テッド・ネルソンとは似ているようでどこが違う。病的なハイパーではない、という点で。新しい。あるいはハイブリッドな感じ。
学校教育的に体系として頭からお行儀よく読まないことも想定されている、ここから著者の優しさがにじむ。
著者が本書を書くに至った4つの動機
(「まえがきにかえて」より)
1. 教員のシラバスへの関心が薄いから
2. 意欲ではなく知識の教育を再検討するため
3. 臨教審の言う学校教育が、成人教育と同じように消費の対象となり(生涯学習化)、子どもを差別しているから
4. ストック情報をもつ学ぶ主体を形成できる契機が情報化社会においてどこにもなくなっており、シラバスの重力が、学びの主体を形成するから
教養教育とリベラルアーツp.49-
(佐藤学によれば)
教養教育は、大量殺戮戦争だった第一次世界大戦以降生じたもの
その衝撃から大学は大学教育のあり方を見直した
大学の学問や知識は社会にとって進歩にとってどのように有用でありうるのか、そのことを教育においておこなうべきだという議論が出てきた
リベラルアーツは西洋古典を基礎とする人文教育の伝統的エリート教育
対して、
教養教育はジェネラルエデュケーションとしての一般教養
言い換えると、
社会が提起する課題に答える教養教育
民主的な市民の教育のための教養教育
この一般教育(ジェネラルエデュケーション)としての教養教育を大学で最初に始めたのがデューイ
平和と民主主義のためのコースだった
講座制はカリキュラム制の反対語pp.70-77
教養教育は「概論」人材で焦点を持ち得ないという批判
人材は社会科学系内部の専門的な体系性を否定しないと〈特色〉を形成できない
〈概論〉は、それを担当する教員はその学部・学科を研究者として代表する教員だった
若手教員では専門的過ぎて概論を論じるだけの能力がなかったから
〈概論〉科目は専門を脱する力、専門を大所高所から論じる力がないと担えない
〈専門〉を脱するのは専門の頂点(End)に立った研究者以外には無理
頂点(End)からしか、すそ野の広がりと入り口(入門)は見えない
ミネルヴァの梟と同じ
「(...)『読むこと』は自分の解釈を示すこと(...)」と川添信介 p.162-
サンデルの白熱教室も、前半の講義と結びつかない討論になっており、発言している学生を「白熱」と呼んでしまっている。
そもそも古典の学説はそれ自体が討論を蔵したもの。(...)勉強している学生ほどあの「白熱教室」では発言しない。
「白熱」すべきなのは、自分の意見を言うことへの白熱ではなく、テキスト自体が有する白熱に白熱することでしかない。
書記行為の民主化pp.319-321の話は、Cosense.iconを想起する
Cosense.iconは、アウトライン編集機能でガシガシ前後を動かせる
コピー&ペーストを超えた世界
けれど近年スマホの世界と、パソコン(ワープロ)の世界が分かれてきた
主に画面サイズの大小の問題
related: 画面占有率闘争
who.icon「Cosense.iconで書いているとき、スマホだと今まさに書いている箇所の前後の、自分の目に映る空間が小さいため、つい話題が脱線していきがち。PCならば、元々なんの話題で書いていたのかに戻ってきやすい感覚がある。」
脱線は元気の証とはいえ、全体を見ての脱線と、点だけを見ての脱線では質感が違うようにも思われる。
事例主義とは、「実践的」と称するキャリア教育の教員が特に連発する「たとえば」の話のようなもの。
なぜ「たとえば」話はそうなるのか。
一つの結論(命題)の周辺の話題をかき集めることによって、一つの結論(命題)自体は何も深化しはしないからです。結論先にありきの傍証ばかりの議論になる。退屈極まりない授業になる。だからワークショップ型でごまかすことにもなるのです。自分のトークだけでは埋められない軽薄さを学生のランダムなおしゃべりを使って埋めるわけです。誰も聞いていない授業をやるよりも、起きて〝活発に〟議論されている授業の方がまだましだろう、と言いながら。
しかし、命題はそれ自体で歴史(起源=根拠(アルケー))と内容を有しています。もっとも大学的な科目でもある哲学などは概念的な命題を追っているかのように見えて、ギリシャ語の語源までそれを辿る行程でしかない場合も多々あります。... pp.324f.
これは、まあNetflixやAmazonやGoogleの成功ケースを「たとえば」と集めてきて、自社の課題が何も深化しないような事態と似ている感じがした。
本間正人「四〇代、五〇代、六〇代からの学びを本当に面白がる人がいたっていいじゃないか」
著者「一〇代のうちに勉強しておかないと、三〇代、四〇代からでは手遅れ」
学校は監獄で退屈だから本が読める
長い時間をかけた学習、系統的な学習は
退屈だから可能
著者「e-Learning中に横に美女が裸になっていても、ひたすら集中し続けられるの?」
殺人罪に近い拘束なほど閉じ込めないとできない
この強制的拘束性が、家庭の文化格差を相対的に解消する契機になる
「多様性」は子どもの多様性ではなくて、家庭や地域の多様性に過ぎない。学校教育以前の、自由で、多様で、個性的な学びの主体なんてものがあるのだとしたら、それは子どもの非主体的な未熟を、家庭が補っているからにすぎないからです。しかし、学校教育におけるメリトクラシーの本質は、階層格差を勉強格差でシャッフルすることにあったわけです。
だから学校には校門と塀がある
這い回る経験主義
学校教育は交通事故ビデオ教育ではない
ハイパーリンクのように興味や「面白そうだから」で学んでいける人は、教育基本法でいうところの人格の完成を終えている人
この箇所は、芦田先生のブログで全文が読める
本居宣長までは、『古事記』は大切にされず、『日本書紀』を誰もが大事にしてきた。それは『日本書紀』の方が、はるかに立派な漢文で書かれていたから。
〝学問にかまける〟とは?
漢文でできあがった学問、つまり、外来の学問にかまけること
小林秀雄「『源氏物語』が女性の手になったという事には理由がある」「その頃、知識、学問は男のものだった(...)。しかもみな漢文だった。漢文の学問ばかりやっていると、どうして人間は人間の機微のわからぬ馬鹿になるのかと、女はみな考えた」。つまり「学識があることと大和魂を持つこととは違う(...)むしろ反対のことなのです。今日の言葉で言うと、生きた知恵、常識を持つことが、大和魂があるということ」。
who.iconこの箇所、漢文を、ビジネスカタカナ語に置き換えて読むとすごく意味が伝わってくる!
学校の〝先生〟の〈真理〉は、『古事記』の作者が国文の文体を苦心して作り上げたように解きほぐされねばならないと、私は思う。漢字文化のようにこわばったものは、本来の〈真理〉でもなければ〈権力〉でもないだろう。漢文に対する格闘の結果が『古事記』であるとすれば、研究の〈真理〉を解きほぐす〝国文〟こそが〈コマシラバス〉でなければならない。〈コマシラバス〉は、研究の〈真理〉の大和心なのである。pp.395f.
研究と教育
機能 function と実体 substance
前者は、ファンクショナリズム
果て(ペラス)=目的(テロス)と起源/始まり(アルケー)
「一がたとえば百番目の一として限界であるとともに、百全体のエレメントでもある」ように「全体」でもある p.398
フラクタルのよう
「点は線の絶対的な始まり」(アリストテレス - ヘーゲル)
絶対知のいまここに現れるものがコマシラバス
親鸞はこの2つの往還の話をしている、と吉本隆明が解説している。p.404
往きは自分のすべきことのために進めばいい
還りは全部、助ける。「かわいそうだから」とかそう言うのでなく助ける
まるでカントの定言命法のようだと思ったterang.icon
この往還を可能にしているものが知識の自由。
この自由を、教員も学生も対等に共有することができる。
それはお金と関係なしに(牛丼一杯を我慢すれば、ノウハウ本よりも安価な岩波文庫が手に入る、図書館は無料)、学生は〝先生〟を純粋に尊敬することができるし、純粋に批判することもできる。