丁寧に問う
という作法
たとえばなんらかの小集団が共存している場で何かの語「AAA」の意味や背景の説明が必要と感じたとき。しかもそう感じた人who-orange.iconが、その語の意味や背景を十分に理解し把握しているとき。
who-orange.icon『AAAとはなんですか?」と問うとき、
周囲から「who-orange.iconはAAAを知っているはずではなかったか」と訝しがられたり、「そんなことも知らないのか」と評価を低くされる懸念が残る。
消極的/IFPsychology/ジマンパワー。あるいは反ジマンパワー。
単純にその場が白ける恐れもあるかもしれない。
以前、「メントスコーラ」がなんなのかずっと知らずに会話に参加し続けた人who-lightgreen.iconがいて、最後の最後で「実は知らなかったんだ」と告白して周囲を驚かせた方がいた
あとで振り返るにwho-lightgreen.iconさん曰く
自分以外の全員が知っていたようだったので語感と文脈からのみ推測して会話に参加していた。ヘヘヘ。ちなみにそれで特に参加する分には問題がなかった。ということは、「メントスコーラって何ですか?」と自分が場をとめてその語の正確な理解につとめたら時間が無駄になったと思うので聞かなくてよかった。何に対して無駄なのか?と考えずに乱暴にいっている自覚はある。聞いた方がいい語の場合もありそうだけど、メントスコーラの正確な理解は、あの時、メントスコーラと名付けられた何かを知っていれば無くていいかもしれない笑
who-lightgreen.iconさんの場合は、白けるというよりかは、勢いのようなものが優先されると思われたケースかもしれない。曖昧さにとどまるネガティブ・ケイパビリティのような何か。
『読んでいない本について堂々と語る方法』の実践でもある(よく知らない言葉について堂々と語るような状態)
いずれにせよ、どのように思われても構わない場や人間関係もあるし、なんだったらファシリテーターはそのように振る舞うこともある(自分がピエロになる)が、たとえ小さくとも自身のアイデンティティの対決に迫られることに変わりはない。
誰しもに対話するソクラテスのような要求は難しい。
何も問わないとき、
who-orange.icon自身がまったく理解していなかったり、少し知っていても曖昧な理解である場合、話についていけないし、
who-orange.icon以外の明らかにAAAを知らないメンバー(たとえば新入社員who-brown.icon)に対して気が気でなくなったり、後からwho-brown.iconへのケアが必要となる
そこで、丁寧に問う。たとえば、
「AAAを知らない方もいるかもしれないので、どなたかAAAの説明をお願いできませんか?AAAへの認識をまず一致させることで今後のコミュニケーションも円滑になるかと思うのですがいかがでしょうか?」
かもしれないと曖昧にすることで、(たとえwho-brown.iconでなくとも)AAAを知らない人の顔をたてる
「自分は十分に知っている(だからAAAの説明を今さら聞く必要はない)」という人にメリットを提示する
はっきり言って長いし、問い文を構成するためにさまざまな配慮と推敲が必要だが、このように丁寧に問うことはそこここで求められていると自分は思うterang.icon
なおシャイン.iconの謙虚な問いかけとは、一部意味が重なりはするものの別種の問いかけ方と考えるので、丁寧という言い回しをとりあえず採用した
以上は/villagepump/わからない人が書くによる成功事例: スーパーボウルでのやり取りで頭に浮かんだこと
ところでオンライン上においては、
Wikipediaの内容や生成AIの出力は、手軽かもしれないが信用できるものではなく、
その一方でたとえ補足でも何かを説明しようとし出すとどちらの方向へもメタへメタへと語り続けることができ、自分だけでその方角を決め難く、何を書き出すにせよ保留するインセンティブが発生する
Wikipediaの内容や生成AIの出力を誤りかもしれない前提が共有されるにしてもその切り取りに方向づけが伴うことは確か。
その方向づけは暗闇の中での飛躍であり、他者(参加者や観客)を信用するほかない状況に立たされることになる
手間の小さい大きいでは片付かないジレンマが残るが、それはここでは別議論なのでまたどこかで整理したい
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