「何者にもなれない」
「私は何者にもなれない」みたいな表現をするときの「何者」がまさに何者かによって勝手に定義されているものだ、という事実はとても重要な気がしている。
「何者にもなれなかった」という言葉も実際はその何者かにならないと吐き出すことさえできない
このMV、この投稿者は明らかに誰かにとっての「何者」になっている
良い悪いとかではなく人類総クリエイター時代みたいな謎の空気の中で創作賛美というかクリエイターあるあるというかそういうノリの作品が多い気がするので無産(俺はこの言葉もそういう分け方も良くないと思ってる)側の気持ちをもっと掘り下げた何かを見たいなという気持ちがある
作れる人間には作れないのでは
しかし無産側が発信能力を得た瞬間無産では無くなってしまうという
「何者かになれなかったお前らへ」煽りについての批判はこれでもかってくらい過去やったからもういいや。「自分は自分以外の何者にもなれない」「『何者か』ではなく『◯◯でありたい』を具体化したほうがいい」「人はその生に理不尽に投げ込まれており、そこに論理的な理由が存在するわけではない」
「ぼくは村上春樹になれなかった」←じゃあ「なりたかった対象」である『村上春樹』って具体的にどういうこと?村上家の長男?売れてる文芸者?どの条件を満たせば『村上春樹になった』と言える?論理的回答はできない。非論理的な要件として社会から『村上春樹』並みの扱いを受けられたら村上春樹か?
「何者かになれなかった」という言葉に立ち向かう気もなく、カンタンで安易な「諦めの言葉」として使うな。何者かになれる人間なんておらん、お前はお前でしかなく、お前以外の誰もお前をやれない。お前に責任を持てるのはお前だけなんだよ。
映画「何者」