2021年3月のメモ
210301
人間の声は音程から自由なんだから逆にボーカロイドは音程に縛り付けてやってもいいのではないかという発想
逆に今ではあまり聴けなくなった中森明菜あたりのスケールに対してゆらゆらしたような歌声をデジタルに再解釈するのも一興かもしれない。
210301
去年の今頃、リアルイベントの価値を如何にオンラインに移植するかみたいなことがずっと考えられていて、そしてその半分くらいはうまく行かなかったのだけれど、振り返ればそこでやるべきだったのはオフラインの価値の再現ではなくオンラインの価値の洗い出しだったのだろうなと感じる。
これに限らず類似の現象に陥ることは多くて、そのとき「(既存物の)再現」とか「(既存物の)代替」みたいな観念が透明な檻になっていることが少なくない。この檻を取り去ることでその先に行ける。
既存のベースを再現しようとしてうまく行かなかったTB-303がテクノ界隈で愛される……!みたいな。
210305
昨今、創作というものが過度に神格化されている気がしていて、その神格化(創作する人はえらい、創作みなすべし、等)が不要な不和を生んでいる感じがしている。本来創作というのは生きる上でオプショナルなものなので、そこに生の物語を見出すような空気が拡がるのは少しあやうい。
というのも、創作というのは外部から目的を与えられないため、常に自律的な"目的の狩猟"が求められる。これをスムーズに達成するには一定の知識や経験の堆積と内面への対峙が必要だが、より良く生きる上でそこに時間と労力を注ぐのが最適とは限らない。(むしろリスキーで、向き不向きが大きい。)
創作というのはその目的を自分で狩猟しないといけないのだが、「創作すべし」という空気の中では「目的の無い目的」だけが与えられることになる。
210307
名取さなの3Dモデル見て思ったけど、目のハイライトを上半分にでっかく入れることによってジト目でまぶた下ろしたときににハイライトがなくなってちょうどいい感じになるのか……!!!!!めっちゃいい……
210307
自信というのは実力ではなく実力の自覚に裏打ちされているように思う。
つまり、出来ることと出来ないことを適切に把握さえすれば不必要に後ろ向きにならずに済む、という……
210307
「私は何者にもなれない」みたいな表現をするときの「何者」がまさに何者かによって勝手に定義されているものだ、という事実はとても重要な気がしている。
210310
味覚とか視覚とか聴覚とかも言っちまえば不随意的な解釈でしかないという事実
でもこう味覚とか視覚とかを「知覚」ではなく「不随意の解釈」と定義し直すことで可能性が拡がる感じがしませんか!?
210311
例えば、30文字の詩は読み切るのに10秒も掛からないけれど、その10秒間を「詩の鑑賞体験の時間」とする人はほぼいないはずで、その点詩は時間に対して遊びを持っている。それに対して音楽の場合は10秒分の歌詞に必ず10秒という時間が割り当てられてしまい、詩と比べて時間的な曖昧さが無い。
詩の場合10秒の鑑賞体験のあとに来るものは任意の時間的空白だけれど音楽の場合はすぐに別の歌詞や別の音がやって来るので、その意味で音楽は言葉を流れとして鑑賞することを要求する。10文字の歌詞で3分の歌を構成することは難しいが(無理ではないかも)、詩の場合は咀嚼によって時間が伸縮する。
そしてもちろんこの2つの中間地点は無限にある!(朗読は?とか)
この議論は正しいかと言われれば正しくない。音楽も詩と同様、作品の外側に余白を持つことは可能。でもいま一般的な歌ものの音楽は時間に対して言葉が多いな、と徐々に感じている。1時間を要求する10文字は音楽に出来ないのだろうか。
「言葉が多いな〜」というのはdisではなくて、メロディを口で歌い上げるためにその音のすべてに対して言葉を用意してやる必要があるという歌の成立条件的な話です。
210311
実は余白というのは完全な0/1のみで判別されるものではなく、例えばbpm140の曲をbpm120で再生すると、どちらも音は絶えず流れているにも関わらず120のほうが情報の密度は小さくなり、相対的に余白の"濃度"が高くなる。
余白の濃度が上がるということは、同じ情報の解釈に与えられた時間が長くなるということでもあり、余白濃度の低い状態(余白の少ない状態)では10しか伝わらなかった情報も余白濃度を高く(余白を多く)することで90伝わるということがあり得る。(要は早口でしゃべると伝わらないみたいな話になるけど)
音楽も同様で、やはり人間時間あたりに解釈できる情報量は決まっているのでドラムを1.2倍速とかにするとそこから受け取ってもらえる情報量はどんどん削ぎ落とされていく。逆に0.8倍速にして余白が多くなると先程処理した情報はすべて満足に受け取られるため、意識はさらなる情報の処理に向かう。
だから、ふつうBPMが早くなると情報量が増えるような気がするが、実際はBPMが上がると一つの音に割ける情報処理の時間は少なくなるため体験としての音あたり情報量は減っているとも言える。逆にBPMを落とせば同じ音から拾い上げられる情報量は増えていく(処理しきれていない情報量がある場合に限る)。
210311
大量のウンコをするのはダイエットではないんだが数字上はダイエットと同じ結果が出るというのが数字の恐ろしいところだ
210312
組み合わせの問題解くときに5C2と5C3は同じになるわけだけど、まさに選ぶことと捨てることというのは同じ意味なのだと思える。Aを選ぶということはA以外を選ばないということを含意する。
当たり前じゃねーかと思われるかもしれないが、創作が創作者に選択を要求するということは同時に何らかの棄却も要求しているということなのだ。1つのキャンバスにキャンバス2つ分の絵を描くことは不可能で、常に選択と棄却を迫られている。
というか創作というのはすべてこの選択と棄却によって成り立っていると言ってもよく、となるとその2つを隔てている何かしらの基準こそがいわば創作物を生み出している(創作を動機付けている)本体ということになってくる。
言い換えれば、何かにこだわるということは何かを許さないということに等しいということ。創作の熟達というのはまさにこの自分の中にある"許し難いもの"をの感度を先鋭化させていく作業に他ならない。
KORGのこのメッセージが身に沁みる。
210314
物理現象は観測可能でそこから物理法則を見出すことも可能だが物理法則それ自体に手を加えることは不可能であるように、論理も論理現象は確認可能だが論理法則に直に手を触れることは不可能で、でも「月の物理」を想像することが可能なら「月の論理」を想像するくらいは可能なのではないかという問い。
論理に重力があるとして、それを1/6にすると推論の軌道が変わってくるのかもしれないとか、そういう。純粋な論理演算であれば結果は変わらないだろうけど日常生活における論理は数式で表せるほどシンプルではないので無数の斥力や抵抗の支配を受け結果が揺らぐ。かもしれない。
どんなに頑張っても物理が変わらないように論理も変わらないはずなんだけど、それを取り巻く場や環境を変えることは可能なはずで、それによって日常論理では発生し得ない情報のふるまいを再現可能なかたちで提示できるのではないか。
日常論理を脱却して思考を迂回したいみたいな気持ちが強くなってしまった
210314
哲学に関する読書、ずっと読む→頑張って理解するの順序だと思ってたけど実は理解する→読むという序列であることがわかってきた。
210315
「〇〇は××ではない」みたいな論争は大抵のばあい語用の話でしかなく「私はこう思ってる」or「私はみんながこう思ってると思ってる」以上の進展が期待できないことが多い。(正典がない場合)
のでこれをやる場合必ずはじめに議論のモチベーションを整理しないと玉突き事故を起こしてわやになってしまう……
210316
目新しい表現みたいなのは積極的にやっていってよいと思っているが、その際「とりあえず常識の逆をやってやろう」みたいな発想をすると結局立脚点が常識になってしまうため表現に強度が出ないことがあり、むしろ常識に真正面から取り組んだほうがかえって見たことの無い自立した表現が得られる。
210316
作ったものに対し「どうやってその表現に辿り着いたんですか(あるいはその表現から何が導けますか)」と訊かれたときどこまで答えが存在しうるか(語れる必要はない)が作品の強度だと思っていて、結局その強度は常識/慣習/背景といった無意識の前提を解体することでしか得られない。
(前提はそれ以上遡上できず、また前提からは前提しか導けないため。)
210318
今まで目的としていたものをブレイクダウンして手段化し、そこにより高次の目的を設定するのがすごく大事だと感じている。
例えば、「遠くの人との打ち合わせを済ませるためにいかに速く安く移動するか」みたいなことを考えてるときには"移動"という部分の方法を模索してるわけだけど、その移動は「(打ち合わせのための)移動」なので実は移動せずにzoomで打ち合わせしても問題なかったりする。
さらにその打ち合わせも「(企画実現のための)打ち合わせ」だったりして、打ち合わせ無しで企画が実現するならテキストのやりとりで済ませてしまっても問題がない。
昔の人がやってたテクノロジーの未来予想図ってわりとその時点での目的の枠組みを先鋭化させたようなのが多くて(空飛ぶ車とか)、でも実際人類はちょっとバックしてハンドル切ってから進むを繰り返しており現在のこの軌道の上に未来が乗ってるとは限らんなと思う。
210319
コミュニケーション能力は運動能力や感覚能力と同じ身体機能の一つにすぎないにもかかわらず、そこに「人間性」的なものを見出してしまう(というかそれこそが人間性であるとしてしまう)というのが人間の脆弱さであり矛盾であると感じているが、その解消は難しいし多くの人にとっては解消の必要もない。
花粉でくしゃみが出ることとストレスで怒鳴り散らしてしまうことの違いについて考えてしまう。ここに境界を引くことで人間社会は成り立っているのだけれど、どこにその境界があるか目視するのは難しいし、おそらく見ていて気持ちのいい境界ではない。
210320
セレンディピティを語るときどのような刺激を外部から取り入れるかということが語られがちだけれど、本当はその前提となる問題設定とそれに対する事前の洞察こそが重要で、それら内的反省が周到にできていれば究極どんな刺激に対してもセレンディピティは起こりうる。
210320
レトリックって論理の亜種な気がしてきた。
亜論理
レトリックは亜論理 欠落した論理
逆に、論理からあぶれたものがレトリックと呼ばれているのではないか。
と、ということは、論理の臨界点/地平線/外骨格/重力場を突破/へ叛逆/に抵抗できるのは落伍した論理/欠如した論理/不完全な論理たるレトリックだけなのでははいか!?
210321
セレンディピティを語るときどのような刺激を外部から取り入れるかということが語られがちだけれど、本当はその前提となる問題設定とそれに対する事前の洞察こそが重要で、それら内的反省が周到にできていれば究極どんな刺激に対してもセレンディピティは起こりうる。
210323
愛というのは選ぶことかと思っていたが、選ばれることかもしれん。
210323
傲慢は怠惰を生むため、傲慢それ自体が時間の無駄
210323
ひたすら世界の還元をしていって、その還元した結晶からひとしずくの創発をひりだせば文脈を越境できるような強度のある何かが生み出せると信じている。
いや、還元する必要もなくて、ただ世界をじっと眺めるだけでいいのかもしれない。もしかしたらそれが還元なのかもしれない。
210323
コンテクストが不在の状況では一切の意味を持てないような言葉がTLに放流されると言及先のコンテクストを探しに行ってしまうような気がする。
210323
謎が包まれてるものが喜ばれなくなったの、無数のコンテンツが消費を待望する目でこちらを見つめてくる時代になったのが大きい感じがするな……1枚のCDを1ヶ月咀嚼するような時代が終わってしまった。これも余白の話。生活の余白の話。
20年前と比べて生活の余白を埋めてくれるものが格段に増えた。かつてトイレに籠っている時間で巡らしていたであろう瞑想も今ではTwitterを眺める時間に変わってしまった……
あとクエスチョンを検索窓に突っ込めば必ず一定のアンサーが返ってくる時代になったのも大きいか。この時代において答えを持たない問いの価値というのは矮小化されてしまう。
情報の加速とかコンテンツの飽和については置いといても、問いの価値の矮小化については個人的には問題意識を感じていて、というのもこれが進むと価値判断の指標が「わかりやすさ」のみになってしまう。世の中わかりやすいものばかりではないのに、答えが把握できないものは無価値とされてしまう。
210327
創作物が経済システムやプラットフォームや媒体に規定されていいのかみたいな気持ちは明確にある一方で、その手の制約は新規制を開拓する手助けにもなり得るだろうとも感じている。逆にもしその制約を逸脱するなら作品の流通についてある程度覚悟を持たねばならない。
要はTwitterを映像メディアとして使うとき必然的に再生時間は140秒内に限定されてしまうが、制約は創造の母なので逆に新規性開拓の助けになることもある…的な。創造を促すプラットフォームと創造を縛る枷は常に裏表である。その上でより大きな新規性に迫るためにはその制約に自覚的になる必要がある。
読みづらい日本語だ……
まとめれば自らが縛られていることを知っていれば縛られていても良いということです。自覚的な縛りは創造を促すが縛られていることに無自覚な状態は可能性の制限になる。ただし、我々は全員何かしらに無自覚に縛られていて、そこを解くと可動域が広がる。
「創造を促す」と「可能性の制限」って言い方違うだけで言ってること同じなんだよな……検討すべき可能性の量を減らすのが制約で、それが創造の効率化につながるという話だから……
創作にあるべき姿なんてあるはずないからどうしてもこういう言い方になってしまうのだ……
210327
「こうあるべき」みたいなやつ単品では絶対言えなくて「こうしたいなら(こうあるべき)」という前提たるモチベーションが必ず必要なんだよな……140文字はモチベーションを満足に語るには短すぎるし大抵の人には蛇足に映るであろうが……
210327
デジタルな加工によって現実の自分に囚われずなりたい自分になれるとしたら、これかなりヴァーチャルじゃないですか!?データにしか存在しえない自分が価値を持って受け入れられるという。肉体至上主義の人からはdisられるのかもしれんが。
210327
己の実存について他者と議論するの不毛なのでやめたほうがいいなという気持ちが日々強くなる 一方的な語りにとどめたほうが健康にいい
210328
自分の人生に誰かの人生(自分以外のできる限りすべての人の人生)を接ぎ木する、するとどうしても不格好になってしまうが、そうすることでしか来たるべき未来に受け身をとることができない
210328
より良く生きるために盲目になるというのはクソ尊いことやと思いますねワシは。
210329
倫理濃度みたいな概念導入したいな。蚊を殺すのも牛を殺すのも人を殺すのも0/1で考えたら同じ殺しだがその倫理濃度が違う的な。誰か言ってそう。
そもそも倫理について考えるときそこにあるのは曖昧なグラデーションだけなので、そのグラデーションに明確な境界を見出そうとするのは不毛であり、かといって全体を同じ色であると扱うのも無益という困難さがある。
倫理を濃度で捉えることで上に挙げた二値化/単色化という陥穽(議論における陥穽)は避けることができ、話を前に進めることができる。
210330
作品をdisるより作品を褒めるほうがずっと難易度が高い。褒める場合描かれている要素(有限)を適切に拾いあげる必要があるが、disる場合描かれてない要素(無限)を要求してもdisは成立するため。
この圧倒的な非対称性を身体に刻み込んだ上で批判を受け止める必要がある。
要するに、批判が何を批判(あるいはなぜ批判)しているのかを見極めていく必要がある。
例えば表現手法というのは表現目的に従属するので、その目的(何を表現したいのか)に齟齬がある状態で手法(どうやって表現したいのか)の議論をすると交通事故が起きる。
210330
経年劣化かなりいいな……
時間を表現するときに時計とか太陽の傾きとか季節の風景とかが真っ先に浮かぶけど、実はあらゆるものが時間の支配を受けていて時間を表現する手段になり得る……
いわばこの身体も日々劣化していて、その意味で曖昧な時計なのだ……
210331
アイデアはただの道に過ぎず、誰かがその上を歩いて初めて価値を発揮する。