香春岳の銅
かつて日本の銅の半分以上が香春産だったといわれるほど採銅がさかんで、大分県の宇佐神宮御神鏡鋳造(七二〇年)や、東大寺の奈良の大仏の鋳造にも貢献している。 延喜式によると日本の銅の半分以上を香春岳が受け持っていたとの事。奈良の大仏の鋳造事業が難航したときに、宇佐八幡が託宣を下して~主として香春岳の銅が使われたといわれています。~銅を語る上で香春町の伝承は、避けて通れないと思います 地名説話の香春は河原と言うは語呂合わせで香具山などと同様の金属(銅)の採取の意であろう。ここの銅で宇佐八幡宮の御神鏡を作った。~また、ここの銅は日本の生産量の半分を占めていたともされ、奈良の大仏の鋳造に大きい役割を果たしている。 ここは昔は国内有数の銅の産地で、『国銅』の長門長登銅山と同様、ここの銅も奈良の大仏建立に使われています。「採銅所」という地名は近代のものではなく、大変由緒ある名前なのです。~三ノ岳から産出される銅から作った銅鏡は、宇佐八幡宮のご神体として奉納されました。宇佐神宮は現在全国四万四千社あるという八幡宮の総本社ですが、八幡神は元々鍛治神とも考えられており、奈良の大仏の建立の際には、この神が建立を助けるという託宣をし、国を動かしたことが『国銅』の中にも出てきます。銅の鋳造技術を持つ渡来人集団の氏神を起源とする八幡神の本処は、実はこの香春なのかも知れないとも考えられているようです。~銅は信仰の対象として、武器として、貨幣として、権力者の力の象徴として重要なマテリアルですが、半島や朝廷との関係の中で、香春産の銅が歴史上の事象にどうリンクしていくのか、さらに詳しく知りたいと思うのでした。 物部世真古.icon 奈良の大仏のWikipediaには香春の1文字たりとも出てこない