遠淡海
都(ヤマト)に近い~周辺を「近淡海」というのに対して、都から遠い地にある淡水湖を「遠淡海」と名付けたときくが、なるほどと思う-と蝶夢は述べている。遠江国は、~この地名が、文書に残されたかたちではじめて登場するのは、『旧事本紀(くじほんぎ)』で、「遠淡海(とうつおうみ)」と記されている。~『旧事本紀』の「国造本紀」(6~7世紀)の初見では、成務天皇のと きに伊岐美命(いさみのみこと*1)が遠淡海国造に任じられたとあり、その国の数は全国で134あげられている。大化の改新以後の律令制中央集権国家が確立して国郡制が実施されると、これらの国々は統合され、遠淡海国、久努国、素賀国が遠江国に属することになった。書き方が「遠淡海」から「遠江」に変わったのは、和銅6年(713)に「国、郡、里の名は2字を使うように」と勅命が下ったことによる。『掛川誌稿』国名には、トオトウミの様々な記述の仕方が、次のように記されている。遠江ヲ止保太不美(タホタフミ)ト訓ス。遠淡海(トホツアハウミ)ノ約言ナリ、旧事記ニ、遠淡海、万葉集ニ等保都安布美(トホツアフミ)又等倍多保美(トヘタホミ)、倭名鈔ニ、止保太阿不三トアリ・・・ 誤字もあるかも知れぬというが、近江の国に対して付けられた名であることは確かであれ、その淡水湖がどこをさすのかはっきりとしないと述べている。 物部世真古.icon 福永説では豊前、行橋、ビワノクマ古墳周辺の海だが、もしかすると洞海湾かも知れない。「遠」と「洞」、近淡海との対関係、「等倍多保美」という響きは戸畑っぽい。最近思い付いた、記紀の記述関係を考えてない比定だから、先生の行橋方面の方が信頼性は高いと思う。