新説・日本書紀㉓ 福永晋三と往く
https://gyazo.com/f1c4d5b28604f0b0c692061c58818cdb
2018年(平成30年)12月8日 土曜日
応神天皇 豊と筑紫に2王朝並立
神功天皇位登宮で即位
358年冬10月に、群臣は神功を尊び皇太后といい、摂政元年とした。だが、書紀はこの年を「辛巳」としている。381年に当たる。書紀年代のはなはだしい矛盾である。
382年11月に、仲哀天皇を河内国の長野陵(北九州市小倉南区長野か、未詳)に葬った。4人目の仲哀か。
383年春正月、「誉田別皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくる。是をば若桜宮といふ」とある。「誉田別」には注意を要する。神功の子(応神)は「分家の皇子」である。また、若桜宮は田川市川宮にある「若咲神社」と思われる。元宮は若咲橋のたもとにあった。奇妙なことに、鳥取県若桜町は履中紀の「若桜宮」に由来するとあるから、あるいは田川の若咲神社こそ神功皇后の若桜宮ではなかったかと推測される。また、西鉄バスの若咲神社停留所の所に、「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑が建っている。
書紀の記事と筑豊の伝承を擦り合わせると、次のようになる。
①357年12月、粕屋町宇美八幡で誉田別皇子を出産。ショウケ越えをし、飯塚市大分八幡で新羅遠征の物部軍を解散。
②橿日宮(飯塚市負立八幡)に帰還、誉田別皇子7歳まで成長。
③364年、位登宮(川崎町帝階八幡)に遷宮。半年後、誉田別皇子皇太子になる。神功、天皇位に登る。
④香坂王・忍熊王の反乱。
⑤365年春2月、穴門の豊浦宮に入り、二王の討伐に向かう。3月、忍熊王の軍を殲滅。
⑥381年、誉田別皇太子が天皇に即位し、神功は皇太后となる。
⑦383年、誉田別天皇(応神)磐余若桜宮(田川市川宮)に遷宮。
書紀によれば、神功皇后の記事は神功13年ですべて終わる。神功皇后の薨去についてはこう記す。「69年夏4月、皇太后、稚桜宮に崩ず。冬10月、狭城盾列陵に葬る。この歳己丑(389年)。」
4世紀に西日本を駆け巡った女帝も豊国に眠ったようだ。田川市見立にある大きな前方後円形地形が神功の陵ではないだろうか。
応神天皇は2人いた
戦後史学は神功皇后までを架空とし、15代応神天皇からが実在としてきた。また、応神は戦後の教科書に大書された「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」のうちの讃に当たるとされてきた。だが、この点に関して、重大な疑問がある。
古事記の応神は品陀和気命(誉田別)であり、書紀の応神は誉田天皇である。この誉田にこだわった伝承が、久留米市の大善寺玉垂宮に伝わる『吉山旧記』に残されている。
応神天皇即位元年(不明)に藤大臣(=紀武内宿祢)が筑紫に下る時、天皇は御幼名誉田の2字を下賜された。藤(誉田)大臣は368年1月7日に肥前水上の桜桃沈輪を退治し、「その後筑紫安穏なり」とある(「鬼夜」の起源)。翌年、御殿が成就し、人民は筑紫大臣と呼んだ。390年薨去とある。
さらに、『松野連系図』によれば、「讃」の親が「縢」となっていて、「倭の五王」の祖が武内宿祢(藤大臣)と思われ、久留米市の高良大社の奥宮は彼の墓所とまで言われている。
つまり、九州の東半分に神功の豊国王朝が成立し、西半分に武内宿祢の創始した筑紫国王朝が成立したのではないかと思われる。
次の世代が、筑紫王朝の誉田天皇(倭王讃)と豊国王朝の誉田別天皇とであり、2人の応神天皇が九州の西東に在位したと考えられる。
次回は22日に掲載予定です
「神功皇后御水鏡伝説之地」の石碑。この池の東南に「若咲神社」があった
「松野連系図」の部分。縢・讃・珍・済と続く
次:新説・日本書紀㉔ 福永晋三と往く