新説・日本書紀⑮ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)8月4日 土曜日
景行天皇② 日本武尊の邪馬台国防衛戦
草薙剣を帯びた日本武尊
邪馬台国は、圧倒的な「弓矢の武力」を誇る狗奴国にもろくも敗れ去ったようだ。邪馬台国の命運もこれまでかと思われた時、救国の英雄が現れた。その名は日本武尊。伝承は複雑だ。古事記や中国の史書「晋書」などと対照した上で、書紀から骨格だけを取り出すとこうなる。
265年ごろ、「東に行き、反乱者を討伐するため」、剣岳(鞍手町新北)を発した日本武尊が、途中、伊勢神宮(宮若市磯光の天照宮)を拝む。伯母の倭姫命から草薙剣(三種の神器の一つ)を受け取った。
熊襲国に至った尊は、川上梟帥の夜宴に女装して紛れ込み、川上梟帥を刺殺する。古事記では熊曽建兄弟となっていて、どうやら、高羽の川上の土折・猪折を指すようだ。そうであるなら、土折・猪折は初めは景行に帰順し、後に日本武尊に誅殺されたのかもしれない。こうして「熊襲の酋長ら」を倒して日本武尊は熊襲国を平定する。実は、田川の失地を回復したようだ。
いよいよ東に打って出る。書紀に「難波の柏済の悪しき神を殺して、水陸の道を開いた」とある。この「柏済」とは、景行の北伐ルートにあった「柏峡の大野」とほぼ同じ地であろう。日本武尊は景行の軍隊と戦い、勝利したことになるのではないか。従って、景行と日本武尊とは十中八九、親子ではあるまい。むしろ敵同士とすれば、「踏石の誓い」も、あるいは日本武尊の誓いではなかったか。
日本武尊の死と白鳥陵
邪馬台国を防衛した尊は、尾張(香春町南部)に帰り、宮簀媛と結婚し、一月ほどとどまった。古事記には「ひさかたの 天の香具山 利謙に さ渡る鵠」で始まる、媛との結婚生活を詠んだ歌がある。
甘い生活もつかの間、東の胆吹山(北九州市小倉北区の足立山、別名「霧が岳」)に「荒ぶる神」が現れた。景行軍が再上陸したようである。尊は草薙剣を宮簀媛の家に置いて、「素手で山の神を殺してやろう」と勇み立つ。急の事で、小部隊の出陣であったか。
日本武尊が胆吹山に至ると、山の神が「牛のごとき白猪」に化けて道をふさいだ。尊は神の使いだろうと高をくくって進んだ。山の神は雲を起こし、氷雨を降らせた。「峯霧り谷暗く」なり、尊は行くべき道を失う。強引に下山したが、尊は初めて「身を痛め」た。つまり、景行軍に待ち伏せされ、矢をあられのごとく降らされ、尊は初めて敗戦し、自身も深手を負ったようだ。
尊は尾張に帰るが、宮簀媛の家に入らず、伊勢(未詳)に移り、「尾津の一つ松(香春町中津原の一本松駅周辺)」に至る。「尾張に 直(ただ)に向かえる 一つ松あわれ」の歌を詠んだ。
能褒野に至って傷の痛みが激しくなった。死期を悟ったのか、尊は古事記によれば次の歌を詠んだ。「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 麗し(倭は国の最も秀でたところ、重なり合っている山々の青い垣、山々に囲まれた倭はすばらしい)」。危篤に陥った尊は、「嬢子の 床の辺に」の歌を詠み終えて息絶えた。
「伊勢国の能褒野陵(田川市伊田の白鳥神社の隣か)」に葬った。尊は白鳥となり陵を出て、倭国を指して飛んだ。群臣が棺を開くと屍が無かった。白鳥は琴弾原(不明)と旧市邑(鞍手町古物神社周辺)にとどまり、それぞれ陵を作った。三つの陵を白鳥陵といった。
266年、「晋書」によれば、倭国女王台与が西晋の武帝に使者を送っている。
次回は18日に掲載予定です
田川市伊田の白鳥神社。この神社の隣に日本武尊が眠っている可能性もある
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