新説・日本書紀⑦ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)4月14日 土曜日
神武東征② 第1次筑豊侵攻は大敗
糸島から古遠賀湾へ
日本書紀の神武紀には、神武天皇が第1次東征に大敗した記述がある。神武紀にある各記事の時系列を整理した上で、記された地名を福岡県内で探し当ててみた。
114年10月、神武自ら諸皇子と船団を率いて東(筑豊)を討つ。11月筑紫国(豊国を指す)の岡水門(芦屋町の岡湊神社)に至る。翌年3月、軍備を整え(古遠賀湾の)流れをさかのぼり中州(鞍手町中山付近。剣岳が島だった頃か)に侵入しようとする。その時、長髄彦が兵を起こして孔舎衛坂(未詳)で防戦。神武の兄五瀬命のひじに流れ矢が当たった。軍は進軍できない。
神武は憂慮し、自らの決意を兵士に述べた。「私は日神の子孫でありながら日に向かって敵を討つのは天道に逆らうことだ。一度退却して神祇を祭り、次は背に日神の威光を負い、影に従って敵を討とう」と。全軍が「そのとおりだ」と答え撤退、筑紫に戻った。
草香の津(福岡市中央区の大濠公園辺り)に至り、盾を立てて雄叫びをあげた。そこを盾津と名付けた。時に五瀬命の矢傷の痛みがひどくなった。進んで紀国の竈山(太宰府市の宝満山。竈門神社があり神武の母玉依姫が祭られる)に至り、五瀬命が病死したため竈山に葬った。
神武は古遠賀湾での戦に敗れ、博多湾岸に敗走し、大宰府の宝満山に入ったことが自然に分かる。
なお、糸島から岡水門に至る経由地は、神武東征伝承が残る熊野神社(古賀市莚内)、神武神社(福津市津丸)、八所宮(宗像市吉留)などが考えられる。福岡県神社誌によると、各伝承の大意はこうだ。
熊野神社 神武天皇が東征の際、船を海浜につなぎこの山に登られ、腰かけた石を御腰石という。
神武神社 神武天皇が東征をしようと日向国より官軍を率いて岡の湊に向かった際、乗り物を仮止めした跡に社を建立。天照大神から6代目のため六の権現として祭り、明治になって神武神社と改称した。
八所宮 神武天皇が東征する際、遠賀郡の岡の湊にしばらくとどまり、当郡の蔦岳に向かうと、当社の神が赤馬に乗り形を現し、人民を指揮して皇軍に従わせ、永く当地の守護神になろうと誓った。そこから赤馬の庄と名付けられた。
竈山で再軍備に3年
日本書紀には、岡水門に至った後、神武が直ちに安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)、浪速国(大阪府)へと瀬戸内海を東進する記述がある。従来の解釈では、浪速国で大敗後、すぐに熊野に再上陸して敵の大軍を少人数で討ち果たすとしている。ただ、それでは矛盾が多い。
吉備の高嶋宮の条には次のような一文がある。「3年経る間に船をそろえ、兵糧を蓄えてもう一度挙兵し、天下を平定しようと思う」
瀬戸内海東進を書紀の改ざんとみなせば、神武が大宰府の竈山で3年間再軍備に励んだ姿が見えてくる。
竈門神社の由緒にこうある。
「祭神の玉依姫命は海神の御女で、鵜葺草葺不合命の后、神武天皇の母君である。神武天皇は皇都を(筑豊の)中州に定めようと東征にお就きになり、天皇は諸皇子とこの山に登りなさって、自ら御胸鏡を榊の枝に取り掛け、厳の太玉串を刺し立て建国の大偉業を告げて(玉依姫命の)御加護をお祈りなさった」
この由緒からも、神武が鞍手町中山にあった筑豊の都を制圧するため、太宰府市で軍備を再編し、第2次東征の出発地としたと直観したのだ。
118年、大軍勢を整えた神武は筑豊への第2次東征を開始する。
(記紀万葉研究家)
次回は4月28日に掲載予定です
神武天皇の軍が第1次東征の際に駐留した「岡水門」と推定される芦屋町の岡湊神社
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