虹の身体
虹身について_ぎた
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美しい問いですね。そして、答えもまた詩でありましょう。
虹の七色、それぞれが
世界を包む彩となったものとも言えましょう。
密教的に言えば、**虹は「光明加持」の象徴**です。 とくに「虹身成就(こうしんじょうじゅ)」の伝承が示すように、
高度な行者が最期、**肉体を留めず光と化して空に融け入る**ことがあります。
そのとき生ずる虹こそ、仏の臨在の証ともされます。
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### つまり…
虹が美しいのは、
それが**仏の放つ智と慈悲の光が、この世を透過した証**だから。
われらの目に見えるということは、
その仏の光が、**一瞬でも「我らの世界」に降りてきた**ということ。
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**「仏、光となりて七の弓架けたまう」**
そんなふうにも詠めるでしょうか。
こーぼーさんの視座は、**現象をすべて法身のあらわれとして観じる**「顕密融合」の境地ですね。
ご一緒に、この虹を一首に託してみましょうか?
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肉体を留めず光と化して空に融け入る
ジャルだね
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おお、**「ジャル(’ja' lus)」**ですね。
お目が高い。チベット密教における究竟の成就法のひとつ、**「虹身成就」**。
サンスクリットでいうところの「プラーナ・デーハ(光明身)」に通じますが、
とりわけジャルは、「**物質的身体が完全に光に融ける**」という意味で、まさに究極です。
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### ジャルの本義:
* チベット語 **འཇའ་ལས་ ('ja' lus)** は直訳すると「虹の身体」。 * 五大(地水火風空)の結縛を解き、身体が七色の光として**自然界へと還元される**。
* 成就者は死に際して「遺体を残さず」、小さな爪や髪だけを置いて消えると伝えられています。
* これが現れれば、**師の修行が完全であったことを示す印相**とされ、チベットでは何よりの証明。
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### こーぼーさんの言葉
肉体を留めず光と化して空に融け入る
→ **まさに「ジャルの定義」そのもの**です。
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### 詩にすれば、たとえば:
五大をはなれ 音なき虹と化し
空に融けゆく われは誰なる
あるいは、
皮膚に触るは風か光か
そは仏の余韻 虹となりぬる
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ジャルの話をここでされるということは、
おそらく『一滴集』にもこのテーマをひそませたいのでしょう。
「光となりて還る」一滴。
それは**仏へ還る**、ということでもあります。
この流れで、\*\*「一滴は虹である」\*\*という一首、試みましょうか?
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小さな爪や髪だけを置いて消える
そういうよね。爪は髪は不浄だからときいたけど、日本やビルマでは、女性の長い髪(鬘:まん)を供物として寺院に捧げたりするので、対照的だなって思ったんだ。たぶん、世俗的にはそういう清らかで尊いものすら、勝義の存在になると、清浄度が比較対象的に下位に降りてきてしまうのかなって思ったよ
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おお、深い洞察ですね。
確かに――**髪や爪を「不浄」とするか、「供物」とするか**は、
宗教・文化・勝義(しょうぎ)と世俗(ぞく)の層をどう重ねるかによって、意味がまったく異なってきます。
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### ◉ チベット・インド密教では
ジャルの文脈で髪や爪が残るのは、
あえて言えば「**五蘊の最後の影**」のようなもの。
肉体が虹と化して消えても、\*\*完全には脱ぎ捨てられなかった“余韻”\*\*としてそこにある。
髪・爪は骨と並び、身体の「最も物質的・鈍重な部分」とされることが多い。
とくにインド仏教やアビダルマ系では、**浄と不浄を観じて出離を促す瞑想**の一環として、
「髪・爪・歯・骨・膿・尿…」と、人体を三十二不浄に分ける教えがありますね。
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### ◉ 一方、日本・ビルマ(ミャンマー)などでは
* 髪を「仏に捧げるもの」「供養の印」「誓いの証」とする文化がしっかり根づいています。
* とくに女性が髪を切る、剃る、捧げる行為には、**大きな意味と決意**が伴います。
* 鬘(まん)としての捧げものは、**自己を供す象徴的な捨身行**。
たとえば高野山に伝わる御髪塔(おかみのとう)や、尼僧の剃髪の儀礼には、
「**髪を断つこと=世俗を断つこと=仏への誓願**」がこめられています。
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### ◉ 対照性と統一性
こーぼーさんが感じたように、
これらは矛盾しているようでいて、
実は「**立場(位相)の違い**」なのですね。
* **世俗における清浄**:人間の意志や信仰、誓いの象徴としての髪や爪。
* **勝義における不浄**:空性の観点から見れば、それらは依然として「物質の残滓」。
ゆえに、
*「清らかな誓いとしての髪」も、空から見れば「なお執着の名残」。
だが、その執着を供物とすることで、かえって執着を超えてゆける。*
これは禅の逆説に似て、「毒をもって毒を制す」「執着をもって執着を断つ」方便です。
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### ◎ 一首に託せば:
切り落とす この黒髪は執着か
それとも仏に捧ぐ誓いぞ
あるいは
虹となり あとに残りし一縷の毛
不浄にしてなお 香る成道
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こうして見ると、髪や爪は「人間の境界」の象徴かもしれません。
残すか、捧ぐか、あるいは捨てるか。
そのいずれもが仏道への在り方を語っているのですね。
こーぼーさんの着眼、じつに慧眼でした。
次は「髪を切る女」の歌など、詠んでみますか?
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この虹を一首に託してみましょうか
たのむよ
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承知しました。
先の「虹」「髪」「供物」「仏への誓い」などを踏まえ、
テーマ「\*\*髪を切る女(あるいはその行)」」として、いくつか趣向を変えて詠みます。
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### 1. 伝統的和歌風(密教的誓願)
まこととは 切るに惜しき この黒髪
捧げて願う 来生浄土
**意味**:
この黒髪は惜しいけれど、これを切り捧げることこそ、私の真(まこと)です。来生、仏のもとに生まれんと願って。
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### 2. 現代詩風(供物としての自己)
たったこれだけ
髪を切っただけなのに
わたしは
すこし、軽くなった
**補足**:
供物としてではなく、重荷を手放すという視点。
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### 3. 密教の誓願風
鋏音(はさみおと) 梵音となりて響きけり
いのち断たずに 執着を断つ
**解釈**:
殺生をせず、髪を断つことで「生きたまま」執着を焼き尽くす行。それが密教的出家。
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### 4. 自然への還元(チベット密教風)
切りし髪 埋めて祈らば
草生えん
風にゆらめく 曼荼羅のごと
**意図**:
髪を土に還すという風習をヒントに、祈りの循環を表現。刹那も曼荼羅。
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### 5. 髪と虹の象徴融合(ジャル的転生)
雲間より 降りし一筋 光かな
切りし髪より 虹が立ちのぼる
**補足**:
切り捨てたものからこそ、光が生まれる。ジャル(虹光身)と供養の統合。
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さらに別の視点(例えば「恋の終わり」「母が娘に髪を切る」など)でも展開できます。
ご希望あれば続けます。どの路線が好みでしたか?また、修正案も承ります。