神皇正統記_【親房】
神皇正統記_【親房】
☆「元弘一統」を夢見つつ、ついに志を得ずして吉野の山奥の賀名生で死んだ。身を先陣・山野において屈することのなかった硬骨の士
後醍醐天皇(5歳年長)の大胆な人材登用によって16歳で従三位→大納言・33歳で源氏長者
・第二皇子世良(よよし)親王の養育→死去…38歳で出家
・建武の新政。4か月後の元弘三年顕家(16歳)が鎮守府将軍となり、皇子義良(のりよし)を奉じて陸奥に下った。実際には41歳の親房が指揮を執った
・陸奥駐留の目的。武家政権発祥の地であり、足利氏が根拠としようとしていた関東を背後から牽制、新政権の全国支配体制を固める?
↑公家一統。「文武の道二あるべからず」
・陸奥において地方武士を統括する小幕府をつくる? 護良(もりよし)親王の考え方に近い?
・足利尊氏が箱根で新田義貞を破る→京都へ
・顕家は背後から京都に進み、尊氏を九州へ追い落として、欧州に戻る
・尊氏は盛り返して、京都を制圧。親房は伊勢の度会へ
・後醍醐の吉野落ち。西上した顕家は和泉で戦死。新田義貞も越前藤島で戦死。南軍の軍事的劣勢は明らかに。
・奥州の鎮守を目指した顕信と義良親王は暴風のため伊勢へ。
・親房と宗良親王は東国節の統括のため常陸へ