愚管抄_鹿谷密謀事件
愚管抄_鹿谷密謀事件
×しかのたに→○ししがたに
かくて建春門院は安元二年七月八日瘡やみてうせ給ひぬ。そのヽち院中あれ行やうにて過る程に、院の男のおぼへにて、成親とて信頼が時あやうかりし人、流れたりしも、さやうの時の師仲まで、内侍所、又かのこいとりたし小鈎など持て参りつヽ、かへりて忠ある由申しかば、皆かやうの物はめしかへされにける。この成親をことになのめならず御寵ありける。信西が時の師光・成景は、西光・西景とてことにめしつかひけり。康頼など云さるがうくるい物などにぎ※※とめしつかひて、又法勝寺執行俊寛と云者、僧都になしたびなどして有けるが、あまりに平家の世のまヽなるをうらやむかにくむか、叡慮をいかに見けるにかして、東山辺に鹿谷と云所に静賢法印とて、法勝寺の前執行、信西が子の法師ありけるは、蓮華王院の執行にて深くめしつかひける。万の事思ひ知て引いりつヽ、まことの人にてありければ、これを又院も平相国も用て、物など云あはせけるが、いさヽか山荘を造りたりける所へ、御幸のなりヽヽしける。この閑所にて御幸の次に、成親・西光・俊寛など聚りて、やうヽヽの議をしけると云事の聞ゑける。
これは一定の説は知ねども、満仲が末孫に多田蔵人行綱と云し者を召て、「用意して候へ」とて白しるしの料に、宇治布三十段た びたりけるを持て、平相国は世の事しおほせたりと思ひて出家して、摂津国の福原と云所に常にはありける。それへもて行て、「かヽる事こそ候へ」と告ければ、その返事をばいはで、布ばかりをばとりてつぼにて焼捨て後、京に上りて安元三年六月二日かとよ、西光法師をよびとりて、八条の堂にてや行にかけてひしヽヽと問ければ、皆おちにけり。白状かヽせて判せさせて、やがて朱雀の大路に引いでヽ頚切てけり。この日は山の座主明雲が方大衆西坂本までくだりて、あくまかり下りて侍るよし云たりけり。世の中の人あきれまどひたることにて侍き。
この西光が頚切る前の日、成親の大納言をばよびて、盛俊と云ちからある郎従、盛国が子に(て)ありき、それしていだきて打ふせて、ひきしばりて部屋に押篭てけり。公卿の座に重盛と頼盛と居たりける所へ、「何事にかめしの候へば参て候」とて、諒闇にて建春門院母后にてうせ給て後の事にてぞ、諒闇のなをしにて、よによくてきたりけり。「出候はんにこまかに見参はせん」とてありけるを、やがてかくしてければ、重盛も思もよらであきれながら、こめたる部屋のもとにゆきて、こしうとのむつびにや、「このたびも御命ばかりの事は申候はんずるぞ」と云けり。さやうなりけるにや。肥前国へやりて、七日ばかり物を食せで後、さうなくよき酒を飲せなどしてやがて死亡してけり。俊寛と検非違使康頼とをば硫黄島と云所へやりて、かしこにて又俊寛は死にけり。
安元三年七月廿九日に讚岐院に崇徳院と云名をば宣下せられけり。かやうの事ども怨霊をおそれたりけり。やがて成勝寺御八講、頼長左府に贈正一位太政大臣のよし宣下などありけり。
さて又この年京中大焼亡にて、その火大極殿に飛付てやけにけり。これによりて改元、治承とありけり。