愚管抄_鳥羽法皇の崩御
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愚管抄_鳥羽法皇の崩御
かくて鳥羽院は久寿を改元して四月廿四日に保元となりにけり。七月の二日うせ給ひける。御やまいのあいだ、「この君をはしまさずは、いかなる事かいでこんずらん」と、貴賎老少さヽやきつヽやきしけるを、宗能の内大臣といふ人、大納言かにてありけり。さまでの近習者にもなかりけれど、思ひあまりて文をかきて、「この世は君の御眼とぢをはしましなんのちは、いかになりなんずとかをぼしめしをはします。只今みだれうせ候なんず。よくヽヽはからいをほせをかるべし」などや申たりけん。さなしとても君も思召けん。さてきたをもてには、武士為義、清盛など十人とかやに祭文をかヽせて、美福門院にまいらせられにけり。後白河法皇くらいにて、少納言入道信西と云学生抜群の者ありけるが、年ごろの御めのとにて紀の二位と云妻もちてありける。これをば人もたのもしく思へりけるに、美福門院一向母后の儀にて、摂籙の法性寺殿、大臣諸卿ひとつ心にてあるべしと申をかれにけり。
さて七月二日御支度のごとく、鳥羽どのに安楽寿院とて御終焉の御堂御所しおかせ給たりけるにてうせさせ給にけり。
その時新院まいらせ給たりけれども、内へ入れまいらする人だにもなかりければ、はらだちて、鳥羽の南殿(の)、人もなき所へ御幸の御車ちらしてをはしましけるに、まさしき法皇の御閉眼のときなれば、馬車さはぎあふに、勝光明院のまへのほどにて、ちかのりが十七八のほど、のり家が子にて、勘解由次官になされてめしつかいけるが、まいりあいたりけるをうたせたまいけるほどに、目をうちつぶされたりとのヽしりけるを、すでに今はかうにてをはしましけるにまいりて、最後の御をもい人にて候ける光安がむすめの土佐殿といひける女房の、「新院のちかのりが目をうちつぶさせたまひたりと申あひ候」と申たりけるをきかせをはしまして、御目をきらりとみあげてをはしましたりけるが、まさしき最後にてひきいらせたまいにけりとぞ人はかたり侍し。
其後ちかのり現存して民部卿入道とて八十までいきてありしに、「かく人かたるはいかなりしぞ」ととい侍ければ、
「目はつぶれ候はず。きこへ候やうにまいりあいて候しに、御幸気色も候はヾ、やは車はちらしあい候しに、めしつぎがつぶてにて、のりて候し車のものみにうちあてヽ、はたとなり候しに、「新院の御幸ぞ」と申候しかば、さうなく、「車をおさへよ」とたかく、車ををどりをり候しほどに、いかにして候しやらん、車のすだれの竹のぬけて候しが、目の下のかはのうすく候所にあたりて、ぬいざまにつらぬかれて候し血の、顕文紗のしらあをヽきて候しかりぎぬの前にかヽりて候しをみ候て、めしつぎどもうちやみ候にし也。さ候はずは猶もうちふせられもやし候はまし。その血のかヽりやうは、かへりて冥加とぞをぼへ候にし」とぞかたり侍りける。