愚管抄_鳥羽法皇の失政
from 愚管抄
愚管抄_鳥羽法皇の失政
院はこの次の位のことををぼしめしわづらいけり。四宮にて後白河院、待賢門院の御はらにて、新院崇徳に同宿してをはしましけるが、いたくさたヾしく御あそびなどありとて、即位の御器量にはあらずとをぼしめして、近衛院のあねの八条院ひめ宮なるを女帝か、新院一宮か、この四宮の御子二条院のをさなくをはしますかをなどやうヽヽにをぼしめして、その時は知足院どの左府といふことはなくて一向に法性寺殿に申あはせられける。御返事たびたび「いかにもいかにも君の御事は人臣のはからいに候はず。たヾ叡慮にあるべし」とのみ申されけるを、第四度のたび「ただはからわせ給へ。この御返事を大神宮の仰と思候はんずるなり」と、さしつめてをほせられたりけるたび、「この勅定の上は四宮、親王にて廿九にならせをはします、これがをわしまさん上は、先これを御即位の上の御案こそ候はめ」と申されたりければ、「左右なし、其定にさたせさせ給へ」とてありければ、主上の御事かなしみながら、例にまかせて、雅仁親王新院御所にをはしましける、むかへまいらせて、東三条南の町、高松殿にて、御譲位の儀めでたくをこなはれにけり。されば世をしろしめす太上天皇と、摂籙臣のをやのさきの関白殿、ともに、あにをにくみてをとヽをかたひき給て、かヽる世中の最大事をおこなはれけるが、世のすゑのかくなるべき時運につくりあはせてければ、鳥羽院、知足院一御心になりてしばし天下のありける(を)この巨害のこの世をばかくなしたりけるなり。されど鳥羽院の御在生までは、まのあたり内乱合戦はなくてやみにけり。