愚管抄_高倉宮追討
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愚管抄_高倉宮追討
同四年五月十五日に、高倉の宮とて、院宮に、高倉の三位とておぼゑせし女房うみまいらせたる御子おはしき。諸道の事沙汰ありて王位に御心かけたりと人思ひたりき。この宮をさうなくながしまいらせんとて、頼政源三位が子に兼綱と云検非違使を追つかいにまいらせて、三条高倉の御所へまいれりけるを、とに逃させ給て、三井寺に入せ給たりけるを、寺法師どももてなして道々切ふたぎたりけるに、頼政はもとより出家したりけるが、近衛河原の家やきて仲綱伊豆守、兼綱などぐして参りにけり。宮をにがしまいらせたる一すぢにやとぞ人は思へりける。こはいかにと天下は只今たヾいまとのヽしりき。
さてたヾへておはしますべきならねば、落て吉野の方へ奈良をさしておはしましける。頼政三井寺へ廿二日に参て、寺より六波羅へ夜打いだしたてヽある程に、おそくさして松坂にて夜明にければ、この事のとげずして、廿四日に宇治へ落させ給て、一夜おはしましける。廿五日に平家押かけて攻寄て戦ひければ、宮の御方にはたヾ頼政が勢誠にすくなし。大勢にて馬いかだにて宇治河わたしてければ、何わざをかはせん。やがて仲綱は平等院の殿上の廊に入て自害してけり。にゑ野の池を過る程にて、追つきて宮をば打とりまいらせてけり。頼政もうたれぬ。
宮の御ことはたしかならずとて御頚を万の人にみせける。御学問の御師にて宗業ありければ、召て見せられなんどして一定なりければ、さてありける程に、宮はいまだおはしますなど云事云ひ出して、不可思議の事どもありけれど、信じたる人のおこにてやみにき。さてやがて寺へは武士いれて、堂舎をのぞきて房々はおほくやきはらはせてき。