愚管抄_顕光大臣の怨霊
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愚管抄_顕光大臣の怨霊
後一条院廿年、後朱雀院九年、この二所は、上東門院の御腹にてをはしませばさうなし。
さて一条院のきさきに、顕光大臣のむすめをまいらせられたるは、皇子をもゑうまず。さて三条院の御子、東宮にたて給ひたるは小一条院なり。この東宮の女御に、又顕光大臣のむすめをまいらせたりけるが、東宮の、一条院の御子に、後一条・後朱雀など出き給にしうへは、我御身もてあつかはれなんとをぼしめして、東宮を辞して院号を申て、小一条院と申てをはしましける。御有心めでたくて、御堂これをいとをしみもてなし申されけるあまりに、むこにとりまいらせられければ、もとの女御、顕光のをとゞのむすめ、ゑまいらぬやうにならせ給けるを、心うくかなしく思ひながら、なぐさめ申さんとて我むすめに、「世のならひに候へば、なげかせ給そ」など申されければ、物も仰せられずして、御火をけにむかいてをはしけるが、火をけの火の、灰にうづもれりけるが、しはりしはりとなりける。涙のをちさせ給いけるが、火にかヽりてなりけるよとみて、あな心うやとかなしみふかくて、やがて悪霊となりにけりとぞ人はかたり侍るめる。さもありぬべき事なり。されば御堂の御あたりには、この霊はやうヽヽにこともありけれども、さまでの大事はゑなきにや。これらは御堂の御とがとや申べからんなれど、これまでもすこしも我あやまちにはまらず。たゞ世の中のあるやうが、かくてよかるべくて、なりゆくとぞ、うらヽヽとこそは御堂はをぼしめしけんを、あさくをもいて悪霊もいでくるなるべし。後朱雀院、東宮にかはりいて、其御子に後冷泉院は、又御堂のをとむすめ内侍のかみにてまいらせられたりけるがうみまいらせられたりければ、さうなきことにて、やがて位につかせ給にけるなり。顕光は悪霊のをとヽとて、こわき御物のけどもにてありける。
さて後冷泉又廿三年までたもたせ給ひければ、宇治殿は後一条・後朱雀・後冷泉三代のみかどの外舅にて、五十年ばかり執政臣にてをはしけり。
後冷泉のすゑに、摂籙を大二条殿と申は教通、宇治殿の御をとヽなり。てての御堂もよき子とをぼして、宇治殿にもをとらずもてなされけるが、年七十にて左大臣なりけるを、わが御子には通房の大将とてかぎりなくみめよく人もちいたりける御子の、廿にてうせられにけるのち、京極の大殿師実はむげにわかき人にてありけるに、こされむ事のいたましくをぼさるヽほどの器量にて大二条どのありければ、ゆづらせ給ひけるを、よの人宇治どのヽ御高名、善政の本体とをもへりけり。