愚管抄_頼長敗死の実見談
from 愚管抄
愚管抄_頼長敗死の実見談
さて悪左府はかつらがはの梅つと云所より小船にのせて、つねのりなど云者どもぐして宇治にて入道殿に申ければ、「今一度」ともをほせられざりけり。さて大和の般若道と云かたへぐし申てくだりければ、次の日とかや引いられにけり。こまかに仲行が子にとい侍しかば、
「宇治の左府は馬にのるにをよばず、戦場、大炊御門御所に御堂のありけるにや、つまどに立そいて事をおこないてありけるに、矢のきたりて耳のしもにあたりにければ、門辺にありける事に蔵人大夫経憲と云者のりぐし申て、かつら河に行て鵜船にのせ申て、こつ河へくだして、知足院殿南都へいらせ給たりけるに、「見参せん」と申されければ、「もとより存たる事也。対面にをよぶまじ」と仰られける後に、船の内にてひきいられければ、このつねのり・図書允利成・監物信頼など云ける両三人、般若寺の大道より上りての方三段ばかり入て、火葬し申てけりとぞうけたまはりし」と申けり。
かやうの事は人のうち云と、まさしくたづねきくとはかはることに侍り。かれこれをとり合つヽきくに一定ありけんやうはみなしらるヽことなり。
かくして為義は義朝がりにげてきたりけるを、かうヽヽと申ければ、はやくくびをきるべきよし勅定さだまりにければ、義ともやがてこし車にのせてよつヾかへやりて、やがてくびきりてければ、「義ともはをやのくび切つ」と世には又のヽしりけり。
かくて新院をばさぬきの国へながしたてまつられにけり。宇治の入道をば又法性寺のさたにて、知足院にうちこめられにけり。
この十一日のいくさは、五位蔵人にてまさよりの中納言、蔵人の治部大輔とて候しが、奉行してかけりし日記を思がけずみ侍しなり。
「暁よせてのち、うちをとしてかへり参まで、時々剋々「只今は、と候。かう候」といさヽかの不審もなく、義朝が申けるつかいははしりちがいて、むかいてみむやうにこそをぼへしか。ゆヽしき者にて義朝ありけり」とこそ雅頼も申けれ。
そのヽち教長めしとりてやうやうのすいもんありける。官にめして、長者・大夫史・大外記候て、弁官、職事にてとはれける、昔のあとありて猶いみじかりけり。この比などさるすぢあるべしとこそみへね。
(以上、巻第四了)