愚管抄_頼豪阿闍梨
愚管抄_頼豪阿闍梨
その中にこの白河法皇御位の後、この賢子中宮にいかでか王子をうませ給べきとふかくをぼしめして、時にとりて三井の門徒の中に頼豪あざりと云たうとき僧ありければ、この御祈を仰つけて、成就したらば勧賞は申さんまヽにと仰ありけるに、心をつくしていのり申されけるほどに、をぼしめすまヽに王子をうみまいらせられたりければ、頼豪よろこびて、「この勧賞に三井寺に戒壇をたてヽ、年(としごろ)の本意をとげん」と申けるを、
「こはいかに、かやうの勧賞とやはをぼしめす。一度に僧正にならんとも云やうなる事こそあれ、これは山門の衆徒訴申て、両門徒のあらそい、仏法滅尽のしるしをば、いかでかをこなはれん」とて勅許なかりければ、
頼豪、「これを思てこそ御祈はして候へ。かない候まじくは、今は思ひ死にこそ候なれ。しに候なば、いのり出しまいらせて候王子は、とりまいらせ候なんず」とて、三井に帰り入て、持仏堂にこもり居にけり。これをきこしめして、「匡房こそ師檀のちぎりふかヽらんなれ。それしてなぐさめん」とて、匡房をめしてつかはされければ、いそぎ三井寺の房へゆきむかひて、「まさふさこそ御使にまいりて候へ」とて縁にしりをかけてありけるに、持仏堂のあかり障子ごまのけぶりにふすぼりて、なにとなく身の毛だちてをぼへけるに、しばしばかりありて、あららかにあかり障子をあけて出たるをみれば、目はくぼくをちいりて面の性もみへず。しらがのかみながくをほして、「なんでう仰の候はんずるぞ。申きり候にき。かヽる口惜しき事はいかでか候らん」とてかへりいりにければ、匡房も力をよばでかへり参て、このよし奏しける程に、頼豪ついに死て、ほどなく王子又三歳にならせ給ふ、うせをはしましにければ、このうへはとて山の西京座主良真をめして、「かヽることいできたり。いかヾせんずる。たしかに又王子いのりいでまいらせよ」と勅定ありければ、「うけ給り候候ぬ。我山三宝山王大師御力、いかでかこのうへはをよばで候はん」と申て、堀川院はいできさせおはしまして御位にはつかせ給て、やがて鳥羽院又出きおはしまして継体たえずをはしますなり。この事はすこしもかざらぬまことどもなれば、山法師は一定をもふところふかヽらんかし。